カンツォーネ

カンツォーネ、イタリアン・ポップスの、“出来れば”知られざる話を致しましょう。

 
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サンレモの歌手たち 19  グロリア・クリスティアン、 ルチアーノ・ヴィルジリ、 フィオレッラ・ビーニ

 

★グロリア・クリスティアン (Gloria Christian)

本名グロリア・プレスティエリ(Gloria Prestieri)1934年6月24日ボローニャ生、1950年代の有名なナポリターナ歌手、ジャズ歌手。

                                              Gloria Christian 01 

父親がジャズ・トランペッター、母親はヴェネチア人でボローニャで生まれだが子供の頃からナポリに住んでいます。その理由は父が幼い頃から音楽教育を始め、ナポリが一番適していると考え、ナポリに一家で引っ越しをしたからです。

時は過ぎ、彼女は学士の学位を取り、1952年ナポリのポジッリポでニック・パガーノ(Nick Pagano)、後にマリーノ・マリーニ楽団でリード・ボーカルになるルッジェロ・コーリ(Ruggero Cori)とレナート・マリーニ(Renato Marini)の友人のジャズ アンサンブルに参加します。グループはクラブで期間限定の活動をします。その場所は1954年レコード・デビューしたヴィス・ラディオの文芸部長で、ラジオ番組にレギュラー出演している有名なジーノ・コンテ(Gino Conte)楽団のものでした。

 そしてグロリアはジャズ歌手として54年、"ペコス・ビル(Pecos Bill)"を歌いナポリのヴィス・ラディオからレコード・デビューをしました。

1956年コモ音楽祭やラジオ・コンクール「金の杖(la bacchetta d'oro)」に出場し大な成功をします。翌57年サンレモ音楽祭に初出場し本選で"カナダの小さな小屋"と"青い鱒"2曲、特別祭の"ドロミーティの登山列車"の全曲入賞をしました。本選の2曲は予想外の大ヒットとなりました。サンレモ音楽祭には58年第8回3曲(最高6位)、60年第10回2曲(参加曲のみ)、62年2曲(参加曲のみ)という成績でした。

ナポリ音楽祭では特別祭(年に2回)を含めて1957年第5回から69年第17回まで10回出場し、1962年第10回に"マレキアーロ、マレキアーロ(MARECHIARO MARECHIARO)"で優勝をはじめ"チェラセッラ(CERASELLA)"、"プルチネラ・ツィスト(PULICENELLA TWIST)"、"夢(NU SUONNO)"など多くの入曲をヒットさせました。

その他に多くのミュージカルやテレビ番組に出演していましたが、70年代以降はその出番も減り、1990年代には復活を果たします。しかし、不幸なことに喉に腫瘍が出来、美声が失われてしまいコンサートは行えなくなり一部のTV番組の出演に限られるようになってしまいました。

 

彼女のナポリターナでない曲を2,3枚紹介しておきましょう

表が日本人女性と米国軍人の悲しい恋の物語の映画「サヨナラ」、裏が映画「パジャマ・ゲ-ム」のテーマ

Vi・MQN-36132 (1957年 VIS RADIO -VIS RADIO)サヨナラ [伊] (SAYONARA [I])/かつて男が一人いた [伊] (SEI TANTO BELLA (THERE ONCE WAS A MAN [I]))

 

Vi・MQN-36132Vi・MQN-36132 VL・MQN-056037VL・MQN-056037

VL・MQN-056037 (1960年12月VIS RADIO -VIS RADIO) BUON NATALE ALL'ITALIANA/ひな菊を喰べないで [伊] (NON MANGIATE LE MARGHERITE)

表はイタリアの定番クリスマス・ソング、裏はドリス・デイの映画「ママは腕まくり」の主題歌です。

 

Vi・MQN-36550 (1960年VIS RADIO -VIS RADIO)EHI, TU!/ピンク・シュ-・レ-セス [伊] (STRINGHE ROSSE (PINK SHOE LACES [I])

 

Vi・MQN-36132Vi・MQN-36550 Gloria Christian 04
 

表はイタリアの曲ですが詳細不明、裏はドディー・スティーヴンス(Dodie Stevens)のカヴァー

 

 

グロリア・クリスティアンの国内盤

グロリア・クリスティアンの国内盤はこのフレッド・ボングストとのデュエットした1曲のみです。

                  SR- 880

SR- 880 (1974年12月 SEVEN SEAS - キング) ローザ/フレッド・ボングスト (ROSA/FRED BONGUSTO)

夢のひととき (TIEMPO D'AMMORE) フレッド・ボングスト と グロリア・クリスティアン (FRED BONGUSTO e GROLIA CRISTIAN)

国内盤が無いに等しく、全盛期の大半を在籍したヴィス・ラディオが1970年代初めに破たん同様となり、現在は原盤がどうなったかのかも不明状態のようです。また彼女自体もSPやカンパニー・スリーブ時代の盤が多く、ジャケットの絵面になりにくいのが難点です。

 

★ルチアーノ・ヴィルジリ (Luciano Virgili)

1922年1月25日 ピサの南20kmの港町リヴォルノ(Livorno)生、1986年3月18日フィレンツェの北隣の都市プラト(Prato)没。

                                             Luciano Virgili 

経済的な理由で港湾労働をした後、まだ非常に若いオペラを歌う彼の友人と同郷のテナー歌手ガリアーノ・マシーニにフィレンツェのルイジ・ケルビーニ音楽院で、声地味ながら広大な鮮やかな美しいバリトンを認められ、奨学金を受けて勉強することが出来ました。

しかし1940年第二次世界大戦激化し、彼も召集され声楽の勉強は中断されました。終戦後1946年、彼は軽音楽に転向し、トスカーナのクラブで歌い始めるとすぐに人気が出ました。

1948年彼のレコード・デビューは"シューベルトのアヴェ・マリア(l'Ave Maria di Franz Schubert)"でフォニットから発売されました。数ヵ月、彼の才能と人気の高さを知ったディノ・オリビエリ(Dino Olivieri)、V.C.M.のV.d.P.との契約を勧め、彼はその後20年間もレコードの吹込みを続けました。49~50年にかけてルチアノ・タヨーリやクラウディオ・ビルラなど当時の一流歌手が出ているミラノの劇場の舞台にも立てるようになりました。

 56年カルロ・カンポガッリアーニ(Carlo Campogalliani)監督の映画「Mamma sconosciuta」のおかげで、米国のカーネギー・ホールやマディソン・スクエア・ガーデンの出演も成功しました。翌年初めてで一度だけのサンレモ音楽祭出場を果たし特別祭を含めて4曲歌いました。その後ナポリ音楽祭にも多数の曲を歌い、60年代は主に海外ツアーをしていました。1968年頃にコンボ(Combo)からレコードを出しています。順調な歌手生活を送っていましたが、70年代に入りうつ病を発症し苦しむことになり、1986年フィレンツェの近郊で亡くなりました。

 

声の質、歌い方は戦前・戦中の歌手カルロ・ブーティ(CARLO BUTI)、ジ-ノ・ベキ(GINO BECHI)、ティト・スキ-パ (TITO SCHIPA)の範疇に入ると思います。何のご縁か彼の外国盤をもっており、こんな機会しか紹介することもないので載せています。

7E・PQ- 582(1957年1月 V.d.P. - V.C.M.) [EP]  ※1957年サンレモ音楽祭出場曲
わたしのヴェニス(VENEZIA MIA)/私の青空(IL MIO CIELO)/終りに(FINALMENTE)/少しずつ(A POCO A POCO)

 

7E・PQ- 5827E・PQ- 582 7MQ-13667MQ-1366

 

7MQ-1366 (1960年V.d.P. - V.C.M.) [45]  しあわせ夫人(SIGNORA FORTUNA)/牧童の恋(AMOR DI PASTORELLO)

 

QELP-8020 (1961年V.d.P. - V.C.M.) CANZONI DI IERI, DI OGGI, DI SEMPRE [LP]

1.カラ・ピッチーナ (CARA PICCINA)
2.可愛いサンタ (PICCOLA SANTA)
3.三十才の女(ひと)  (LA SIGNORA DI TRENT'ANNI FA)
4.影に惹かれて (INCANTESIMO)
5.鐘 (CAMPANE)
6.まむし (VIPERA)
7.アディオ・シニョーラ (ADDIO, SIGNORA)
8.待ちましょう (TORNERAI)
9.心のぬすびと (LADRA)
10.レジネッラ (REGINELLA)
11.キオーヴェ (CHIOVE)
12.沢山のばらを (PORTAMI TANTE ROSE)

QELP-8020QELP-8020 PSQ-042PSQ-042

 

PSQ-042 (1968年V.d.P. - EMI ITALIANA) PARLAMI SOTTO LE STELLE [LP]

1.エストレリ-タ [伊] (ESTRELLITA [I])
2.清らかなセレナ-ド (SERENATA CELESTE)
3.恋のひととき (UN'ORA SOLA TI VORREI)
4.愛のくちづけ (AMORE BACIAMI)
5.あなたのそばに (DA TE ERA BELLO RESTAR)
6.ベニスと月とあなた (VENEZIA LA LUNA E TU)
7.嫉妬のタンゴ (TANGO DELLA GELOSIA)
8.眠られぬ夜 (ADDORMENTARMI COSI')
9.星空の語らい (PARLAMI SOTTO LE STELLE)
10.クレオラ (CREOLA)
11.マリア・ラ・オ (MARIA LA-O)
12.フィレンツェの朝の歌 (MATTINATA FIORENTINA)

ルチアーノ・ヴィルジリの国内盤はありません

 

★フィオレッラ・ビーニ (Fiorella Bini)

本名フィオレッラ・ビニ ケルビーニ(Fiorella Cherubini)1933年12月2日ミラノ生、2004年2月15日) ローマ没。"飛べよ小鳩"等の作詞家ビクシオ・ケルビーニ(Bixio Cherubini)の娘で歌手でした。

                                          Fiorella Bini 01 

1953年に、ピッポ・バルツィッザ(Pippo Barzizza)楽団からラジオ・デビュー後、チニコ・アンジェリーニ(Cinico Angelini)楽団に移籍します。1955年コンテストの"La Maschera d'Oro"に優勝し、ポリドールと契約しました。

1957年ただ一度のサンレモ音楽祭に出場し、特別祭も含めて3曲歌いました。同年ディーン・マーティン(DEAN MARTIN)の"ザッツ・アモーレ(THAT'S AMORE)"のイタリア語カヴァー曲"Questo è amore"がヒットしました。58年チェトラに移籍し、翌59年ヴィアレッジョ(VIAREGGIO)で行われた第2回ブルラマッコ・ドーロに初参加しました。この時の優勝者の一人が世に出る前のセルジョ・エンドリゴでした(http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/5327817.html)。

60年写真家のセルジョ・リッチ(Sergio Ricci)と結婚しトリノに引っ越し、地元のレコード会社エマルエラ(Emanuela Records)に移籍、長女モニカ(Monica)が誕生しました。

 

フィオレッラ・ビーニの国内盤はありません




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サンレモの歌手たち 18  ヌンツィオ・ガロ、 ティナ・アローリ、 ジ-ノ・バルディ、 ポーカー・ディ・ヴォーチ

 

今までフランコ・リッチとトゥリオ・パーネしかナポリの歌手は出場していませんでしたが、第7回大会ではナポリの男女大物歌手や経歴の違う歌手達が出場しました。

 

★ヌンツィオ・ガロ(Nunzio Gallo)

1928年3月25日ナポリ生、2008年2月22日ナポリから北東50kmの山里テレーゼ・テルメ没、歌手、俳優。

                                           Nunzio Gallo 

彼はナポリのサン・ピエトロ・ア・マジェラ音楽院でヌンツィオ・バリ教授とマリオ・カンパニーノ教授の指導の下テノールを勉強しました。最初はテノールで後にバリトンになる整った美しい力強く柔軟な声でした。1945年ナポリのパルメ劇場でオペラ歌手としてデビューし彼のキャリアを開始、、1948年彼は「軽音楽のコンテスト(Un concorso di musica leggera)」で2位となりRAI に所属しました。

1952年には、総監督カルロ・マリア・ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)、レナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)主演のヴェルディの歌劇「椿姫」に端役ながら出演が出来ました。1956年の第1回カンツォニッシマで"マンマ(Mamma)"をうたいジーノ・ラティルラの"新年おめでとう(BUON ANNO... BUONA FORTUNA)"と共に優勝しました。

第7回サンレモ音楽祭に初出場し"ギタ-の弦"で優勝、ほか第8位と参加曲2曲を特別際で"世界で最も美しい歌が第3位となり、その年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストに出場し第6位になりました。62年に2回目で最後となるサンレモ出場で2曲(1曲は11位入賞)を歌っています。

1959年に彼はビアンカ・マリア・ヴァッリアーレ(Bianca Maria Varriale)と結婚4 人の子供が生まれ、それぞれ歌手、俳優に育ちます。1961年に出した"16才(SEDICI ANNI)"がミリオン・ヒットとなりスターの座を確実なものとしました。

ナポリ音楽祭には56年第4回に"太陽の光を(MANNAME NU RAGGIO 'E SOLE)"で入賞、58年第6回に彼の代表作、ナポリ音楽祭の名曲"ヴリア(VURRIA)"を歌って優勝、入賞曲"舟に帰ろう(TORNA A VVUCA')"も歌いました。60年第8回には3曲歌い"ばらとあなた('E RROSE E TU)"、"面影を求めて(STI 'MMANE)"が入賞。61年第9回はミルバをパートナーに"クレーデレ(CREDERE)"で優勝、"終りなき愛(AMMORE SENZA FINE)"が入賞。63年第11回は"アンナマリア(ANNAMARIA)"が3位、"恋のきずな(CATENE D'AMMORE)"、"海のセレナード(SERENATA MARENARE)"3曲を入賞させ、64年第12回では日本人が好んで歌う"アンモーレ・ミオ(AMMORE MIO)"でオルネラ・ヴァノーニをパートナーにして第2位なるなど1970年まで出場を続けました。

晩年は映画俳優として活躍し、1979年アルフォンソ・ブレシア監督(Alfonso Brescia)の映画「Il mammasantissima」、マリオ・ビアンキ監督(Mario Bianchi)の映画「Napoli storia d'amore e di vendetta」ほか20本ほどの映画に出演しています。

2007年9月23日午後、ピエディグロッダ祭で永年功労賞受賞式中に脳出血で倒れ、闘病生活を送りますが、2008年2月22日に亡くなりました。

 

所属レコード会社はデビューから1959年 Odeon(Carischi)、1960年~1967年 Vis Radio、1968年~1971年 Phonotype、1972年~ Zeus。

 

 

ヌンツィオ・ガロの国内盤

HM-1045 (1959年4月ANGEL - 東京芝浦電気工業) ヴリア (VURRIA)/マレキアーレの夢 (SUONNO A MARECHIARE) [45]

 

HM-1045HM-1045 HW-1052HW-1052

 

HW-1052 (1960年ANGEL - 東京芝浦電気工業)ナポリの歌声(THE VOICE OF NALPOLI) [25cm LP]

1.フニクリ・フニクラ (FUNICULI' FUNICULA)
2.マレキアーレ (MARECHIARE)
3.マリア・マリ (MARIA MARI')
4.オー・ソレ・ミオ ('O SOLE MIO)
5.マリウ愛の言葉を(PARLAMI D'AMORE MARIU')
6.チャオ・チャオ・バンビ-ナ(CIAO CIAO BAMBINA (PIOVE))
7.恋のブルース(IO SONO IL VENTO)
8.ヴリア(VURRIA)
9.マレキアーレの夢(SUONNO A MARECHIARE)
10.ヴォラーレ(NEL BLU DIPINTO DI BLU)

HV-1036 (1959年6月ANGEL - 東京芝浦電気工業)ナポリ民謡の祭典 (CANZONE NAPOLETANA) [LP]

1.うるわしきセレナータ (SERENATA ARRAGGIATA)
3.歌い語り ('O CANTASTORIE)
5.まごころ (SINCERITA')
6.何故ナポリで歌う (PECCHE' SE CANTA A NAPULE)
8.舟に戻れ (TORNA A VVUCA')
10.ヴリア (VURRIA)
11.お前に望む (VOGLIO A TTE)
14恋さえあれば (BASTA 'AMMORE PE' CAMPA')

HV-1036HV-1036 HW-1080NO IMAGE-WANTED

 

HW-1080 (1961年11月ANGEL - 東芝音楽工業)ママと子供たち (?) [25cm LP]
6.フニクリ・フニクラ (FUNICULI' FUNICULA)

 

HW-1087 (1962年8月ANGEL - 東芝音楽工業)サンレモからのプレゼント (SANREMO BEST SONGS) [25cm LP]
5.チャオ・チャオ・バンビ-ナ(CIAO CIAO BAMBINA (PIOVE))
6.ヴォラーレ(NEL BLU DIPINTO DI BLU)

                    HW-1087HW-1087

 

 

 

 

★ティナ・アローリ (Tina Allori)

1924年10月12日フィレンツェ郊外のポッジョ・ア・カイアーノ(Poggio a Caiano)生、1989年2 月27日ローマの北北東100kmの山中にある小さな町アマトリチェで没。

                                          Tina Allori 

  教職の資格をとりフィレンツェ近郊のガッルッツォ(Galluzzo)の小学校教師になりますが、1940年ラジオ公開素人のど自慢に優勝したので教職を諦めます。最初ローマのラジオ局で歌う時、伴奏はアルトゥーロ・ストラッピーニ(Arturo Strappini)楽団です。それは1942年彼女の芸能生活の始まりでした。

1942年、彼アルマンド・フラーニャ(Armando Fragna)楽団やネッロ・セグリーニ(Nello Segurini,)楽団をと共演し、特にセグリーニ楽団とトリオ・カピネーレ(Trio vocale Capinere)とのデビュー曲"Notte e dì(夜と昼と)"、"フィオリン・フィオーレロ(Fiorin fiorello)"が大ヒットしました。

それ以降、戦争が激化する中でラジオの戦時歌謡を歌いヒットさせていました。戦後50年代になり映画にも出演し、52年にフェルッチョ・チェリオ(Ferruccio Cerio)監督の「La donna che inventò l'amore」にも出ました。55年ストックホルムで開催されたナポリターノのコンサートに参加し好評を得ます。

1957年ただ一度のサンレモ音楽祭で3曲歌い1曲が入賞しました。60年ピエロ・ソフィッチ楽団に替わり海外の活動を重点をおき、ソ連で"アリヴェデルチ"を500万枚売上ました。その後も海外活動を続け、82年ストックホルムで最後の公演を行いました。

レコード会社はチェトラのみですが、59年以降に合併後のフォニットから、63年のジューク・ボックスのコンピレーションに2曲も収録されています。

 

ティナ・アローリの国内盤はありません

 

 

 

★ジ-ノ・バルディ (Gino Baldi)

1922年7月1日米国サン・フランシスコ生、2010年コロンビアのボゴタ没、50年代のイタリアの歌手。

                            Gino Baldi 02

 1928年イタリアに戻り、1955年テレビ放送開始の時に歌い注目されました。 1957年第7回サンレモ音楽祭にただ一度の参加をし特別祭を含む4曲を歌いました。

その後ポピュラー音楽をやめ、オペレッタに専念しました。晩年は中南米で生活し、2010年南米コロンビアで亡くなりました。サンレモ音楽祭出場歌手の中では特異な経歴の持ち主です。

レコード会社は資料が少ない中確認できるのはフォニットのみです。

 

ジ-ノ・バルディの国内盤はありません

 

 

 

★ポーカー・ディ・ヴォーチ (Poker di Voci )

1953年トリノでピエロ・パゼーロ(Piero Pasero)の主導で結成された男性4人の三声構成ボーカル・グループで、1970年に解散しました。

                  Poker di Voci


メンバーは

ピエロ トラーパニ(Piero Trapani) 1930年 4月10日~2011年11月19日トリノ生・没

ジョルジョ・カルダーナ(Giorgio Caldana) 1930年4月29日~1996年6月2日トリノ生・没

ピエロ・フィエルモンテ(Piero Fiermonte) 1921年8月26日ローマ生、2009年9月9日トリノ没、 クルト・ウェッホウスキー(Kurt Wehowski)1925年8月 29日ドイツのポツダム

 

グロリア・クリスティアン、ナタリーノ・オット、ジーノ・ラティルラ、カーラ・ボーニ、フレッド・フスカリオーネなどの有名歌手のバック・コーラスをしました。57年一度だけのサンレモ音楽祭で特別祭を含め7曲歌いました。後にウィリアム・ガラッシーニ楽団からミッェルーチ楽団に所属変えをしています。ゲイローズ(The Gaylords)やペトゥラ・クラーク(Petula Clark)の英語やフランス語の歌をイタリア語ヴァージョンで歌っていました。

所属レコード会社は955年~59年チェトラ、1960年以降エマヌエラ、1966年 DKFからも出ています。

 

ポーカー・ディ・ヴォーチの国内盤はありません




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  14

  今回の特筆する点がいくつかあります。まず本選のほかに、10曲別参加で特別祭が10日の日曜日に行われています。その名前は「独立作曲家のカンツォーネ(Canzoni degli Autori Indipendenti)」特別祭です。今回は応募曲数が4000曲を超え、4分科会に分かれ審査して絞り込んだそうです。最初に書きましたがサンレモ音楽祭は新曲コンクールで各音楽出版社が曲を応募して提出します。なので音楽出版社に所属していない作曲家には応募の機会がありませんでした。独立作曲家からの出品は、出品参加料が無料だったそうです。

 

 音楽出版社に所属していない作曲家には応募の機会がありませんでした。そのことに不満だった作曲家たちの対策だったのでしょう。"マナ・マナ(MAH NA' MAH NA')"はじめ日本では映画音楽やラウンジ系のリスナーに知られているピエロ・ウミリアーニ(PIERO UMILIANI)もその一人でした。

 現実には音楽祭終了後、楽譜が発売される時は何処かの音楽出版社から出ていたようです。現物で確認できた曲は、出版社を記載していますが、不明な曲はD.R.(個人管理)としています。

 レコードもやはり音楽祭の付録的扱いだったので優勝曲や一部の曲を除くとセールス的に成功したと言い難いようです。実際に今回サンプル音声ファイルをさがしましたが幾つかの曲は見つかりませんでした。

 

 出場歌手の経歴としてジ-ノ・バルディは米国のサン・フランシスコ生まれ。海外で生まれた歌手はサンレモ音楽祭出場では初めてのようですが、6才過ぎてからイタリアにもどったようです。それともう一人、始め手に外国人がサンレモ音楽祭の舞台を踏みます。男声コーラス・グループ、またポーカー・ディ・ヴォーチの一員のクルト・ウェホウスキーがドイツのポツダム生まれのドイツ人でした。ソロ歌手の外国人の出場はもっと後になりますが、サンレモ音楽祭も純血種気を貫く時代ではなくなったようです。

 

第7回付属 独立作曲家のための特別際 1957年1月10日(日) サンレモ市カジノ付属劇場

司会:ヌンツィオ・フィロガーモ (Nunzio Filogamo) と マリア・テレジア・ルータ (Maria Teresa Ruta)
楽団指揮:チニコ・アンジョリーニ (Cinico Angelini)、アルマンド・トロヴァヨーリ(Armando Trovajoli)
再演奏楽団:アルベルト・センプリーチ(Alberto Semprini)
オーガナイザー:イタリア放送協会(RAI) ;サンレモ市カジノ場(Casino di Sanremo)
形式:出場曲数10曲。1曲2歌唱で10曲を歌い優勝以下得票により順位をつけ決定する。

 

   Tina Allori     Poker di Voci
   ティナ・アローリ (Cetra)         ポーカー・ディ・ヴォーチ (Cetra)

    

<優勝> なみ Ondamarina (D.Vernazza - L.Lops) 出版社 DIAPASON クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa (CETRA - CETRA)SP-  30 [45] AC-3195 [SP] : ジョルジョ・コンソリーニ (vm) Giorgio Consolini (PARLOPHON - CARISCH) TT-9905 [SP]

 

AC-3195AC-3195a SP-  30SP-  30

 

 

<> わたしのヴェニス Venezia mia (M.Peragallo) 出版社なし(D.R.)ジャンニ・ラヴェーラ (vm)ドゥオ・ファザーノ (duo) Gianni Ravera & Duo Fasano (CETRA - CETRA) AC-3197 [SP] : ルチアーノ・ヴィルジリ (vm)* と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Luciano Virgili & Poker di Voci (V.d.P - V.C.M.) HN-3768 [SP] : (CETRA - CETRA) 不明 [SP] *レコードではルチアーノ・ヴィルジリ (vm) と コレット Luciano Virgili & coretto

 

<3位> 世界で最も美しい歌 La più bella canzone del mondo (A.Mari - G.Filippini) 出版社 なし(D.R.)ジーノ・ラティルラ (vm) Gino Latilla (CETRA - CETRA) AC-3185 [SP] :ヌンツィオ・ガロ (vm) Nunzio Gallo (ODEON - CARISCH)不明 [SP]

 

<入賞曲>

4位 淋しき教会 Chiesetta solitaria (A.Bezzi - C.Pentaldi)出版社 なし(D.R.) クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa (CETRA - CETRA) AC-3195 [SP] : ジョルジョ・コンソリーニ (vm) Giorgio Consolini (PARLOPHON - CARISCH) 不明 [SP]

 

            AC-3195AC-3195b

5位 ドロミーティの登山列車 La cremagliera delle Dolomiti (G.Perretta - D.Fedri) 出版社 なし(D.R.) ドゥオ・ファザーノ (duo) Duo Fasano (CETRA - CETRA) AC-3191 [SP] :グロリア・クリスティアン (vf) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Gloria Christian & Poker di Voci (VIS RADIO - VIS RADIO) Vi-5759 [SP] :  (CETRA - CETRA) 不明 [SP]

 

            AC-3191AC-3191

6位 心の世界 Era l'epoca del "cuore" (N.Segurini) 出版社 なし(D.R.) ティナ・アローリ (vf) Tina Allori (CETRA - CETRA)不明 [SP] :フロー・サンドンス (vf) Flo Sandon's (DURIUM - DURIUM) A-10915 [SP]

 

6位 私達 Il nostro sì (F.Lodigiani - F.C.Mainardi) 出版社 なし(D.R.)ジーノ・バルディ (vm) Gino Baldi (FONIT - FONIT) 15579 [SP] : トニーナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) AC-3200 [SP]

 

6位 ほほえみと涙 Sorrisi e lacrime (R.De Giusti - F.Cassano) 出版社 なし(D.R.)フィオレッラ・ビーニ (vf) Fiorella Bini (POLYDOR - SIEMENS) 不明 [SP] : ユーラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (Columbia - V.C.M.) CQ-3357 [SP] : (CETRA - CETRA) 不明 [SP]

 

9位 私の青空 Il mio cielo (L.Beretta - E.De Leitenburg) 出版社 なし (D.R.) カルラ・ボーニ (vf) Carla Boni (CETRA - CETRA) AC-3185 [SP] :ルチアーノ・ヴィルジリ (vm) Luciano Virgili (V.d.P.  - V.C.M.) HN-3768 [SP]

 

10位 夢の私 Sono un sognatore (G.C.Testoni - P.Umiliani) 出版社 なし (D.R.)ジーノ・ラティルラ (vm) Gino Latilla (CETRA - CETRA) AC-3186 [SP] :ナタリーノ・オット (vm) Natalino Otto* (FONIT - FONIT) 15562 [SP] *ナタリーノ・オットのオンセイ・サンプル・ファイルの曲表示が間違っています

 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、あ出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  13

  この第7回に初出場したのは、優勝した超大物ナポリターナ歌手ヌンツィオ・ガロとナポリの大型新人グロリア・クリスティアンが初出場しました。グロリア・クリスティアンはてっきりチャキチャキのナポリっ娘だと思っていましたが、今回バイオグラフィーを見たらボローニャ生まれと知りました。ミランダ・マルティーノも生まれはアルプス山麓でしたが両親がナポリ人で育ったのはナポリなので、もう少し経歴を見ていきましょう。

第7回 1957年1月7日(木)~10日(日) サンレモ市カジノ付属劇場

司会:ヌンツィオ・フィロガーモ (Nunzio Filogamo) と マリア・テレジア・ルータ (Maria Teresa Ruta)

楽団指揮:チニコ・アンジョリーニ (Cinico Angelini)、アルマンド・トロヴァヨーリ(Armando Trovajoli)

再演奏楽団:アルベルト・センプリーチ(Alberto Semprini)

オーガナイザー:イタリア放送協会(RAI) ;サンレモ市カ

ジノ場(Casino di Sanremo)

形式:出場曲数19曲。1曲2歌唱で2夜に10曲、9曲を歌い、各夜5曲ずつを入賞曲を選出し、最終夜に優勝以下得票により順位をつけ決定する。.

出場歌手は17歌手(グループは1歌手)初出場7人

Cetra 8; CARISCH(Odeon; Parlophon) 3; Fonit 2; V.C.M.( V.d.P.; Columbia) 2; Vis Radio 1; Durium 1; Melchioni (SIEMENS) 初 1

 

Fiorella Bini 01     Luciano Virgili    
フィオレッラ・ビーニ (Polydor)       ルチアーノ・ヴィルジリ (V.d.P.)

 

 

[入賞曲のつづき]

9位 希望の糸 Un filo di speranza (G.C.Testoni - S.Seracini) 出版社 LA CICALA ジーノ・ラティルラ (vm) と ドゥオ・ファザーノ (duo) Gino Latilla & Duo Fasano (CETRA - CETRA) SP-  25 [45] AC-3187 {SP}: ナタリーノ・オット (vm) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Natalino Otto & Poker di Voci (FONIT - FONIT) 15563 [SP];15575 [SP];15589 [SP] : (CETRA - CETRA) 不明

 

AC-3187AC-3187a SP-  25SP-  25

 

10位 青い鱒 Le trote blu (D.Calcagno - L.Gelmini) 出版社 SOUVENIR カルラ・ボーニ (vf) と ドゥオ・ファザーノ (duo) Carla Boni & Duo Fasano (CETRA - CETRA) AC-3184 [SP] : グロリア・クリスティアン (vf)* と ナタリーノ・オット (vm) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Gloria Christian & Natalino Otto & Poker di Voci (VIS RADIO - VIS RADIO) Vi-5763 [SP] : (FONIT - FONIT) 15566 [SP] : (CETRA - CETRA) 不明  * グロリア・クリスティアン レコードはルチアーノ・グローリ(Luciano Glori)とデュエット、サンプル・ファイルは下線の曲名をクリックしてください。

 

            AC-3184AC-3184b

 

<参加曲>

◆少しずつ A poco a poco (M.Rivi - C.Innocenzi) 出版社 NAZIONALEジーノ・ラティルラ (vm) Gino Latilla (CETRA - CETRA) AC-3181 [SP] : ルチアーノ・ヴィルジリ (vm) Luciano Virgili (V.d.P. - V.C.M.) HN-3767 [SP]

 

◆もう一度信じて Ancora ci credo (M.A.Campanozzi - E.Fecchi) 出版社 RADIO MELODIEティナ・アローリ (vf) Tina Allori* (CETRA - CETRA) AC-3198 [SP] : フロー・サンドンス (vf) Flo Sandon's (DURIUM - DURIUM) A-10914 [SP] *ティナ・アローリ 下線のついた曲名をクリックして下さい。

 

            AC-3198AC-3198

 

◆ある微笑み Un certo sorriso (G.Fiorelli - M.Ruccione) 出版社 MODERNE ジャンニ・ラヴェーラ (vm) Gianni Ravera (CETRA - CETRA) AC-3197 [SP] : ナタリーノ・オット (vm) Natalino Otto (FONIT - FONIT) 15552 [SP]

 

◆エクスタシー Estasi (L.Lucci - C.Da Vinci) 出版社 ULPIA フィオレッラ・ビーニ (vf) Fiorella Bini* (POLYDOR - SIEMENS) 不明 [SP] : フロー・サンドンス (vf) Flo Sandon's (DURIUM - DURIUM) A-10914 [SP]  *フィオレッラ・ビーニ 下線のついた曲名をクリックして下さい。

 

◆終りに Finalmente (M.Rivi - Bonavolontà) 出版社 DESMAX ジーノ・バルディ (vm) Gino Baldi* (FONIT - FONIT) 15585 [SP] : ルチアーノ・ヴィルジリ (vm) Luciano Virgili (V.d.P - V.C.M.) HN-3767 [SP] *ジーノ・バルディ 曲名の表示が間違っています。

 

◆わが心の庭 Nel giardino del mio cuore (G.C.Testoni - G.Kramer) 出版社 KRAMER ジーノ・バルディ (vm) Gino Baldi (FONIT - FONIT) 15580 [SP] : ユーラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (Columbia - V.C.M.) CQ-3358 [SP]  *ジーノ・バルディ 曲名の表示が間違っています。

 

◆もう想い出さないで Non ti ricordi piu'? (L.Poggiali - C.Da Vinci) 出版社 MAURRI ジーノ・ラティルラ (vm) Gino Latilla (CETRA - CETRA) AC-3183 [SP] :ヌンツィオ・ガロ (vm) Nunzio Gallo (ODEON - CARISCH)不明 [SP]  *ジーノ・バルディ 曲名の表示が間違っています。

 

              AC-3183AC-3183

 

◆霧の光 Raggio nella nebbia (L.Pagano - F.Salina) 出版社 RADIOMELODIAフィオレッラ・ビーニ (vf)ドゥオ・ファザーノ (duo) Fiorella Bini & Duo Fasano (POLYDOR - SIEMENS) 不明 [SP];CETRA - CETRA) AC-3183 [SP] : ユーラ・デ・パルマ (vf) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Jula De Palma & Poker di Voci (Columbia - V.C.M.) CQ-3357 [SP] : (CETRA - CETRA) 不明 [SP]

 

              AC-3183AC-3183

 

◆水晶の夢 Un sogno di cristallo (A.Testa - P.Calvi) 出版社 FESTIVAL カルラ・ボーニ (vf) Carla Boni (CETRA - CETRA)AC-3201 [SP] : ユーラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (Columbia - V.C.M.) CQ-3358 [SP]

 

<失格曲>

■美しきもの La cosa piu' bella (Pinchi - D.Olivieri) 出版社 CONTINENTAL トニーナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) AC-3190 [SP] : カルラ・ボ-ニ (vf) Carla Boni (CETRA - CETRA)不明

 

始めての失格曲が出ました。2夜に歌われる曲が既にクリスティーナ・ヨリヨ(Cristina Jorio)が歌っている事が分かり、初の失格となりました。参考として載せておきます。フライングしたクリスティーナ・ヨリヨのサンプル音声ファイルはあったのですが、本当に歌うはずだったカルラ・ボーニのサンプル音声は見つかりませんでした。原因のクリスティーナ・ヨリヨは翌58年に初出場しているので、大した問題でもなかったのでしょうか?




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  12

  司会は第4回のヌンツィオ・フィロガーモが再登場、 楽団はチニコ・アンジョリーニが復帰(一説には視力障害で活動を休止していたとの話もあります)、第三回のアルマンド・ゴロヴァヨーリのコンビ、再演奏楽団指揮は第4回にアンジョリーニと組んだアルベルト・センプリーチが担当するという完全チニコ・アンジョリーニの王政復古型フェスティバルとなりました。出場歌手は後で紹介しますが、アンジョニーニの息のかかった歌手達も勢ぞろいとなります。  

 サンレモの主となるクラウディオ・ビルラが本丸チェトラに移籍、出場し優勝します。翌年にはドメニコ・モドゥーニョが出場し"ヴォラーレ(Nel blu dipinto di blu)"で優勝します。創世期最後の頂点と、新たな成長・繁栄期の入り口の大会となりました。

 

第7回 1957年1月7日(木)~10日(日) サンレモ市カジノ付属劇場

司会:ヌンツィオ・フィロガーモ (Nunzio Filogamo) と マリア・テレジア・ルータ (Maria Teresa Ruta)
楽団指揮:チニコ・アンジョリーニ (Cinico Angelini)、アルマンド・トロヴァヨーリ(Armando Trovajoli)
再演奏楽団:アルベルト・センプリーチ(Alberto Semprini)
オーガナイザー:イタリア放送協会(RAI) ;サンレモ市カジノ場(Casino di Sanremo)
形式:出場曲数19曲。1曲2歌唱で2夜に10曲、9曲を歌い、各夜5曲ずつを入賞曲を選出し、最終夜に優勝以下得票により順位をつけ決定する。.

出場歌手は17歌手(グループは1歌手)初出場7人
Cetra 8; CARISCH(Odeon; Parlophon) 3; Fonit 2; V.C.M.( V.d.P.; Columbia) 2; Vis Radio 1; Durium 1; SIEMENS (Polydor) 初 1

 

 

 

Nunzio Gallo   Gloria Christian 03   Gino Baldi 02
ヌンツィオ・ガロ (Odeon)        グロリア・クリスティアン (Vis Radio)  ジーノ・バルディ (Fonit)

 

<優勝> ギターの弦 Corde della mia chitarra (G.Fiorelli - M.Ruccione) 出版社 SUVINI ZERONI クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa (CETRA - CETRA) SP-  29 [45] :ヌンツィオ・ガロ (vm) Nunzio Gallo (ODEON - CARISCH) TW-4403 [SP]

SP-  29SP-  29 TW-4403

<2位> ナイチンゲール Usignolo (L.L.Martelli - G.Castellani - C.Concina) 出版社 CARIROLI クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa (CETRA - CETRA) SP-  30 [45] : ジョルジョ・コンソリーニ (vm) Giorgio Consolini (PARLOPHOE - CARISCH)不明 [SP]


AC-3194b SP-  30 QDSE-3932
AC-3194          SP-  30            QDSE-3932 [4曲入EP]

<3位> スク-ザミ Scusami (Biri - A.Perrone - V.Malgoni)出版社 ITALCARISCH ジノ・ラティルラ (vm) Gino Latilla (CETRA - CETRA) SP-  26 [45] : トニナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) AC-3184 [SP]

AC-3184AC-3184SP-  26SP-  26

<入賞曲>
4位 カナダの小さな小屋 Casetta in Canadà (M.Panzeri - V.Mascheroni) 出版社 MASCHERONI 
カルラ・ボニ (vf) と ジーノ・ラティルラ (vm) と ドゥオ・ファザーノ (duo) Carla Boni & Gino Latilla & Duo Fasano (CETRA - CETRA) SP-  25 [45] : グロリア・クリスティアン (vf) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro)  Gloria Christian & Poker di Voci (VIS RADIO - VIS RADIO)Vi・MQN-36048 [45];(CETRA - CETRA) 不明

 AC-3187AC-3187bSP-  25SP-  25

5位 バラの門 (うるわしきバラの門) Cancello tra le rose (U.Bertini - M.De Paolis) 出版社 TEVERE クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa (CETRA - CETRA) SP-  29 [45] : ジョルジョ・コンソリーニ (vm) Giorgio Consolini (PARLOPHON - CARISCH) TT-9904 [SP]

HIT-1089HIT-1089 SP-  29SP- 26

6位 危険第一番 Il pericolo numero uno (E.Bonagura - M.Cozzoli) 出版社 CAMPI ジーノ・ラティルラ (vm) と クラウディオ・ビルラ (vm) Gino Latilla & Claudio Villa (CETRA - CETRA) SP-  26 [45] : ナタリーノ・オット (vm) と ポーカー・ディ・ヴォーチ (coro) Natalino Otto & Poker di Voci (FONIT - FONIT)15566 [SP]:(CETRA - CETRA) 不明

 AC-3194AC-3194aSP-  26SP-  26

7位 いつも春のように Intorno a te (è sempre primavera) (M.De Angelis) 出版社 NORD-SUD ティナ・アローリ (vf) Tina Allori (CETRA - CETRA) AC-3198 [SP] : トニーナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA)不明 [SP]

AC-3198AC-3198

8位 もう一度だけ Per una volta ancora (U.Bertini - G.D'Anzi) 出版社 D'ANZI カルラ・ボーニ (vf) Carla Boni (CETRA - CETRA) AC-3201 [SP] : ヌンツィオ・ガロ (vm) Nunzio Gallo (ODEON - CARISCH) 不明 [SP]

 

 

 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。




サンレモの歌手たち 17  トニーナ・トリエリ、 ジャンニ・マルゾッキ

  第6回出場者でその後、女王ニラ・ピッツィの後を継ぎ、復活してきたトニーナ・トリエリと歌手としてでなく、声優、俳優として有名となったジャンニ・マルゾッキを次に紹介しましょう。

★トニーナ・トリエリ (Tonina Torrielli)

本名マリア・アントニエッタ・トリエリ(Maria Antonietta Torrielli)、1934年3月22日、ジェノヴァの北30kmにある小さいな町セッラヴァッレ・スクリヴィア生。1950年代に人気のあった歌手。

               Tonina Torrielli 

 15歳で製菓工場に採用され、ノーヴィ・リーグレ工場でキャラメルの包装をしていました。友人や同僚の多くは、彼女が個人のパーティなどで歌うことはむしろ消極的で、非常に恥ずかしがり屋だったと語っています。1955年、第6回の音楽祭に出場するRAI新人コンテストの最後の6人に選ばれるまで目立った存在ではありませんでした。ラジオの聴取者が新人コンテスト番組で歌った:"アンダルシア(Andalusia)"、"エストレリータ(Estrellita)"と"沢山のばらを(Portami Tante Rose)"の3曲の素晴らしいうたを聞くまでは。

 56年のサンレモ音楽祭で"あの人のせい"のバック・コーラスを含め5曲を歌い"よかったら愛して"が最高の第2位となります。この大会は新人コンテストの要素と他にも舞台裏で色々なことがあり、音楽祭としては成功したとはいず、優勝曲の"窓を開けて"とトニーナ・トリエリの"よかったら愛して"以外は忘れ去られてゆきました。そして彼女は「カンツォーネのキャラメル屋さん(La caramellaia della canzone italiana)というニックネームがつきました。

デビューとなるサンレモ音楽祭後に出された彼女のファースト・アルバムと思います。ヤフー・オークションに出ていて運よく手に入れる事が出来ました。彼女自身が歌った4曲のほか、カヴァーで2曲、ラジオで歌った"沢山のばらを"と、当時どの歌手も歌っていた"ジャニー・ギター"のイタリア語版です。

LPA-   55 (1956年CETRA - CETRA,Italy)トリーナ・トリエリ・ヒット・アルバム (I SUCCESSI DI TONINA TORRIELLI) [25cmLP]

                   LPA-   55

1.窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)
2.空の讃歌 (IL CANTICO DEL CIELO)
3.愛着の森 (IL BOSCO INNAMORATO)
4.ジャニー・ギター [伊] (JOHNNY GUITAR [I])
5.よかったら愛して (AMAMI SE VUOI)
6.とどまる人 (QUALCOSA E' RIMASTO)
7.黄金の夢 (SOGNI D'OR)
8.沢山のばらを (PORTAMI TANTE ROSE)

 彼女とフランカ・ライモンディは第1回ユーロヴィジョン・ソング・コンテストにも出場します。参加国が7ヶ国で各2人の14人で争われ、スイスが優勝し、他の曲には順位を付けませんでした。この時から、イタリアではサンレモ音楽祭の優勝者がユーロヴィジョンに出場することになったようです。

 彼女は内気な性格だったので舞台では緊張し震えが止まらないことがあったようですが、歌手としては順調に成長しチェトラの看板女性歌手となります。サンレモ音楽祭は57年3曲(最高3位)、58年4曲(最高2位)、59年3曲(最高4位)、60年23曲(最高4位)、61年1曲(7位)、62年1曲(10位)、63年2曲(最高6位)と8回連続出場で各年良い成績で素晴らしい実績を残しました。連続出場記録はミルバの9回に継ぐ第2位の記録で未だに破られていません。

 人気歌手の階段を昇るにつれて、小さなことでも芸能誌のゴシップになったり、スキャンダルを流されたりして悩んでいたそうです。

 1960年チニコ・アンジェリーニ楽団のドラマー、マリオ・スキーノ(Mario Maschio)と結婚しました。62年第1回カンタジーロでスター部門の「シローネA」に"chitarra e pistola"で出場します。入賞しなかったようでジャケット画像もサンプル音声も探し出せませんでした。

1965年のみ31歳、メリディアスな自分の歌は時代の要求に合わないと悟り引退します。夫と二人楽器やレコードのミュージック・ショップを開き2003年閉店まで40年以上営業しました。

 

 

トニーナ・トリエリの国内盤

FLP-12 (1962年7月25日 FONIT - テイチク)第12回サンレモ歌の祭典(1962)第2集 (XII FESTIVAL DELLA CANZONE SANREMO 1962 Vol.2) [25cmLP]

3.あなたを待って (ASPETTANDOTI)

6.ゴンドリ・ゴンドラ (GONDOLI' GONDOLA')

FLP-12FLP-12 FLP-17FLP-17

FLP-17 (1963年6月10日 FONIT - テイチク)第13回サンレモ「歌の祭典」(1963年)(XIII FESTIVAL DELLA CANZONE SANREMO (1963)) [25cmLP]

4.小さなお空 (COM'E PICCOLO IL CIELO)

7.二人の誓い(PERDONARSI IN DUE)

 

FS- 25 (1963年7月15日 FONIT - テイチク)二人の誓い(PERDONARSI IN DUE)/小さなお空 (COM'E PICCOLO IL CIELO)

FS- 25NO IMAGE-WANTED  17M-101117M-1011


17M-1011 (1964年10月1日 SEVEN SEAS - キング)サン・レモのすべて第2集 (TUTTE LE SAN REMO Vol. 2) [CP]

4.つた (L'EDERA)

MH- 210 (1965年9月 SEVEN SEAS - キング)一緒にカンツォ-ネを歌おう第7集 (LE PIU' BELLE CANZONI Vol.7) [LP]

8.魅惑のワルツ (FASCINATION)

MH- 210MH- 210 SLX3-1001(M)SLX3-1001(M)a 

SLX3-1001(M) (1966年10月10日 SEVEN SEAS - キング)豪華版サン・レモのすべて (TUTTE LE CANZONI DI SAN REMO) [LP]

1-11.よかったら愛して (AMAMI SE VUOI)

2-2.つた (L'EDERA)

SR- 601~2 (1971年1月15日 SEVEN SEAS - キング)サンレモ音楽祭のすべて第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO (I)) [LP]

2-3.よかったら愛して (AMAMI SE VUOI)

2-12.つた (L'EDERA)

SR- 601~2SR- 601~2a SR- 603~4SR- 603~4

SR- 603~4 (1971年2月10日 SEVEN SEAS - キング)サンレモ音楽祭のすべて第2集 (FESTIVAL DI SAN REMO (II)) [LP]

1-3.あなた (TUA)

GXC- 141~2 (1979年7月21日SEVEN SEAS - キング)サン・レモ音楽祭大全集(FESTIVAL DI SAN REMO) [LP]

1-15.よかったら愛して (AMAMI SE VUOI)

1-19.スクーザミ (SCUSAMI)

GXF-  81~90GXF-  81~90a 240E- 2013~5240E- 2013~5

240E- 2013~5 (1989年6月SEVEN SEAS - キング)カンツォ-ネのすべて~栄光のサンレモ(STRIA DELLA FESTIVA DI SANREMO) [3CD Box]

1-7.つた (L'EDERA)

NFA-91801~10 (1991年1991年JAZZY - ジャジー・プランニング)エンサクロペディア・オブ・カンツォーネ(ENCYCLOPEDIA OF CANZONE) [CD]非ライセンス商品

1-12.スクーザミ (SCUSAMI)

         NFA-91801~10NFA-91801~10

 

 

★ジャンニ・マルゾッキ (Gianni Marzocchi)

1934年1月2日ボローニャ生、1990年8月25日ローマ没、歌手、俳優、吹替え声優。

                Gianni Marzocchi 

 55年RAI新人コンテスト応募、当時は21才の法学生でした。翌56年のサンレモ音楽祭に出場し、目立つ存在で有りまでんでしたが歌って第8位となった曲"ミュゼット"がドメニコ・モドゥーニョの作品で、後にクアルテット・チェトラ(Quartetto Cetra)によりヒットして注目を浴びました。

デビュー当時はチェトラの所属でしたが、59年頃にはドゥリウムに移籍しジャズ歌手として歌っていましたが、その後は外国映画やアニメの吹替え声優や俳優に専念します。歌手だったので特にミュージカルの吹替えは歌も担当し、「ドリトル先生」のアンソニー・ニューリー、「マイ・フェア・レディ」のジェレミー・ブレットの吹替えで"君住む街角"をイタリア語で歌い重要な存在となりました。特にジェレミー・ブレットの「シャーロック・ホームズ」の吹替えは定評があったようでした。

 

ジャンニ・マルゾッキの国内盤はありません




サンレモの歌手たち 16  フランカ・ライモンディ、 ルチアーナ・ゴンザレス、ウーゴ・モリナーリ、クララ・ヴィンチェンツィ

 

優勝したフランカ・ライモンディでさえ現在まで記憶の残されているのは"窓を開けて"ぐらいで、新人コンテスト形式は成功しませんでした。唯一大歌手に育った

 

★フランカ・ライモンディ (Franca Raimondi )

1932年7月8日~1988年8月28日、長靴の踵の付け根あたりになるモノポリ生・没。

                   Franca Raimondi 

言語学の学生でしたがオペラの勉強もしていましたが、軽音楽に転向しました。1953年ラジオのコンテスト(いわゆる"のど自慢"番組か?)に優勝し、よく54年、雑誌「ソリージ・エ・カンツォーネ」主催する全国規模の「黄金の声」コンテストでも優勝しました。

55年にサンレモ音楽祭の出場権があるRAI主催のコンクールで最終12人に選ばれ出場者6人の1人として56年サンレモ音楽祭で"窓を開けて"を歌い優勝、始めてのユーロビジョン・コンテストにトニーナ・トリエリと共にイタリア代表として参加しました(優勝のスイスのみを決定)。

57年ニースの国際音楽祭に出場、ジャン・ステラッリ(Gian Stellari)楽団に入りRAIラジオの出演契約も出来ました。60年第8回ナポリ音楽祭ではマリオ・トレヴィのパートナーとして"CANZONE ALL'ANTICA"を歌いましたが入賞はできませんでした。

1980年代初めまで歌い続けていたようですが、"窓を開けて"を超える歌は出ませんでしたい彼女のディスコグラフィー、所属レコート会社の情報はサンレモ音楽祭優勝当時のフォニットのことしか分かりません。

 

フランカ・ライモンディの国内盤

17M-1011 (1964年10月1日 SEVEN SEAS - キング)サン・レモのすべて第2集 (TUTTE LE SAN REMO Vol. 2) [CP]

2. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

          17M-101117M-1011

 

SR-   5 (1966年10月10日 SEVEN SEAS - キング)サン・レモの栄光 (I VINCITORI A SAN REMO) [CP]

6. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

SR- 5SR- 5  SLX3-1001(M)SLX3-1001(M)a

 

SLX3-1001(M) (1966年10月10日 SEVEN SEAS - キング)豪華版サン・レモのすべて (TUTTE LE CANZONI DI SAN REMO) [LP]

1-10. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

SR- 601~2 (1971年1月15日 SEVEN SEAS - キング)サンレモ音楽祭のすべて第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO (I)) [LP]

2-1. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

SR- 601~2SR- 601~2a GW- 261~2GW- 261~2

 

GW- 261~2 (1974年6月SEVEN SEAS - キング)サン・レモ優勝曲のすべて (I VINCITORI DI SAN REMO) [LP]

2-7. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

GXF-  81~90 (1979年2月5日SEVEN SEAS - キング)サン・レモ音楽祭大全集(FESTIVAL DI SAN REMO) [LP]

1-14. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

GXF-  81~90GXF-  81~90a GXC- 141~2GXC- 141~2

 

GXC- 141~2 (1979年7月21日SEVEN SEAS - キング)サン・レモ音楽祭大全集(FESTIVAL DI SAN REMO) [LP]

1-10. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

NFA-91801~10 (1991年JAZZY - ジャジー・プランニング)エンサクロペディア・オブ・カンツォーネ(ENCYCLOPEDIA OF CANZONE) [CD]非ライセンス商品

1-9. 窓を開けて (APRITE LE FINESTRE)

 

       NFA-91801~10NFA-91801~10

 

 

★ルチアーナ・ゴンザレス (Luciana Gonzales)

本名ルチア・ベネデッタ・ ゴンザレス(Lucia Benedetta Gonzales)、1935 年11月15日ジェノバ生。

                 Luciana Gonzales 

 サンレモ音楽祭の出場権が得られるRAの新人コンテストに応募した時は20才の音楽学校生でした。婚約者と結婚の予定でしたが、彼女はサンレモ音楽祭に出場する道を選びました。

 サンレモ音楽祭は56年のみで4曲歌い、第3位になった"人生は偽りの花園"は大ヒットしました。また初の新年の宝くじとショーのテレビ番組「Canzoni della fortuna」に参加し"シエリト・リンド(CIELITO LINDO)"と"ピガール(PIGALLE)"を歌いました。

 その後マドリッド・フェスティバルやニューヨーク・カンツォーネ・フェスティヴァルなど、様々なイベントに参加します。チェトラと合併したフォニットに移籍し、1960年にはエロス・ショリルリ楽団とピアニストのリト・エスカルソ(Lito Escarso)が伴奏する"Ti credo"でブエノス・アイレス・カンツォーネ・フェスティバルにも参加しました。1964年、当時のヒット曲を満載した歌謡映画"I ragazzi dell'Hully Gully"に出演しました。

 1966年過ぎに結婚のため歌手生活から引退しました。

 

ルチアーナ・ゴンザレスの国内盤

FLP- 1 (1961年4月25日 FONIT - テイチク)第11回サンレモ歌の祭典 (XI FESTIVAL DELLA CANZONE SANREMO 1961) [25cmLP]

4. レディー・ルナ (LADY LUNA)

 

FLP- 1FLP- 1 FLP-13FLP-13

 

FLP-13 (1962年8月25日 FONIT - テイチク)ジュークボックス・オン・パレード (PARATA IN JUKE BOX) [25cmLP]

3. エ・ルイ (E' LUI)

 

GW- 261~2 (1974年6月SEVEN SEAS - キング)サン・レモ優勝曲のすべて (I VINCITORI DI SAN REMO)  [ジャケット画像はフランカ・ライモンディの国内盤をご参照]

2-4.人生は偽りの花園 (LA VITA E' UN PARADISO DI BUGIE)

 

GXF-  81~90 (1979年2月5日SEVEN SEAS - キング)サン・レモ音楽祭大全集(FESTIVAL DI SAN REMO)  [ジャケット画像はフランカ・ライモンディの国内盤をご参照]

1-16.人生は偽りの花園 (LA VITA E' UN PARADISO DI BUGIE)

 

 

★ウーゴ・モリナーリ (Ugo Molinari)

1928年1月1日~2005年12月19日ボローニャ生・没。新人コンテスト応募時は26才製薬会社代表でした。

                    Ugo Molinari 


 このユニークな経歴でハンサムな若い才能を持った新人歌手は、超有名歌手から自分の立場を危うくする危険な存在と思われました。「若い才能は早めに摘み取れ」だったのでしょう。レコード会社に圧力をかけました。

下馬評もトニーナトリエリかウーゴ・モリナーリでしたし、彼自身も出場曲4曲とも最終選に残ったのは自分だけで、優勝に一番近い存在と思い結果を楽しみにしていました。しかし各地の投票を見て血の気が引きます。故郷のボローニャでも散々の結果で、一番上位の"あの人のせい(La colpa fu...)"でさえ優勝曲の半分ほどの得票で5位止まりでした。

彼の人気も急降下し、その内にレコード会社との契約も解除されてしまいます。そしてボローニャで音楽の先生のところで知り合ったアガタ・シンダーコと結婚しました。その後1964年、当時のヒット曲を満載した歌謡映画"I ragazzi dell'Hully Gully"にルチアーナ・ゴンザレスらと共に出演しました。彼は二人の息子を持ちます。ヴィットリオ(Vittorio 1966年)とマルコ(Marco 1973年)です。 とイタリアのウィキペディアには書いてありました。当事者達は死んでいますが、もし本当なら怖いお話です。 その歌手は密約があったのか、間もなくチェトラに移籍し翌年のサンレモ音楽祭に出場しました。

 

ビニール盤が出るようになり、ベスト盤として発売されました。

SP- 217 (1958年CETRA - CETRA) あの人のせい (LA COLPA FU)/窓を開けて(APRITE LE FINESTRE) ウ-ゴ・モリナ-リ (UGO MOLINARI)/ルチア-ナ・ゴンザレス (LUCIANA GONZALES)

 

            SP- 217SP- 217

 

ウーゴ・モリナーリの国内盤はありません

 

 

★クララ・ヴィンチェンツィ (Clara Vincenzi)

1934年8月14日マントヴァ生。 プロ・サッカー・チーム、当時のインテルのディフェンダー、グイド・ヴィンチェンツィ(Guido Vincenzi)の妹。

                     Clara Vincenzi 

 1955年RAIの新人コンテストで出場歌手6人の人に似選ばれ、56年第6回のみの出場、"あの人のせい"のバック・コーラスを含め5曲歌いました。彼女は緊張のあまりステージ上で十分な感情表現が出来ず歌ったのが原因で他の4曲は入賞できなかったと思われています。

翌57年"Il tigrotto"、"Anima gemella".がヒットしたようですが詳細は分かりません。その後彼女の若々しい好感のもてる"Dice la coccinella"も発売されました。そして、家族に専念するために彼女は芸能界から引退をします。

 

クララ・ヴィンチェンツィの国内盤はありません

 




元カンツォーネ・ファン・クラブ&元イタリア友の会 合同パーティー2012

 

 11月11日「元カンツォーネ・ファン・クラブ&元イタリア友の会 合同パーティー2012」という"同窓会"が大阪であり、私も参加しました。午後から冷たい雨が降る日でしたが遠く福岡、東京、金沢、名古屋などから参加された方もあり、21名ながら盛況でした。(やっと集合写真を送ってもえました。お世話役さん、お忙しいところ有難うございました。)もし今後このような集いがあれば参加してみたいと思う方があれば、お世話役に連絡します。非公開のコメントで連絡方法を教えてください。お世話役さんに取り次ぎます。
楽天のブログで非公開ができないようでしたら、ヤフー・ブログからご連絡ください。

 

CFC2012-11-11  

 

この中に遠い昔、見たことのある顔があるかもしれません。それにしても平均年齢は上がってしまったようです。

 

 

ヤフー・ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio  cnz27hiroのブログ

楽天ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/cnz27hiro/  cnz27hiroのブログ

または 「cnz27hiroのブログ」で検索おてみてください。

今これを見ている方は、必要のない情報だったかもしれませんが、偶然にご覧になったかたで必要のある人はアドレスを残しておいてください。




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  11

 

第6回 1956年3月8日()~10日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:ファウスト・トメイ (Fausto Tommei) と マリア・テレジア・ルータ (Maria Teresa Ruta)

楽団指揮:ジャンニ・ステッラーリ (Gian Stellari)

再演奏楽団:イギリス、ジョージ・メラクリーノ楽団(George Melachrino

オーガナイザー:イタリア放送協会(RAI) ;サンレモ市カジノ場(Casino di Sanremo)

形式:出場曲数20曲。1曲1歌唱で2夜に各10曲を歌い、それぞれ10曲をジョージ・メラクリーノ楽団が再演奏し、各夜5曲ずつを入賞曲を選出し、最終夜に優勝以下得票により順位をつけ決定する。.

出場歌手は新人6人 Cetra 5 Fonit 1
LUCIANA GONZALES       Gianni Marzocchi       CLARA VINCENZI
ルチアーナ・ゴンザレス (CETRA)     ジャンニ・マルゾッキ (CETRA) 左ギター  クララ・ヴィンチェンツィ (CETRA)

<参加曲>
心の姉妹 Anima gemella (G.C.Testoni - C.A.Rossi) 出版社 ROSSI ジャンニ・マルゾッキ (vm) と クララ・ヴィンチェンツィ (vf) Gianni Marzocchi & Clara Vincenzi (CETRA - CETRA) DC-6462 [SP]

            DC-6462DC-6462

それは美しい (なんて美しい)  E' bello (Danpa – D.Vignali) 出版社 RORAM ルチアーナ・ゴンザレス (vf) Luciana Gonzales (CETRA - CETRA) DC-6463 [SP]

            DC-6463DC-6463b

太陽へのことば (太陽を浴びて)  Ho detto al sole (R.Morbelli – F.Falpo) 出版社 DESMAX ジャンニ・マルゾッキ (vm) Gianni Marzocchi (CETRA - CETRA) DC-6469 [SP]

            DC-6469DC-6469b

ルチアとトビア Lucia e Tobia (M.Panzeri - G.D'Anzi) 出版社 D'ANZIジャンニ・マルゾッキ (vm) と フランカ・ライモンディ (vf) Franca Raimondi & Gianni Marzocchi (FONIT – FONIT)※15235;15245 [SP] :CETRA – CETRA *DC-6470 [SP])※1235ばャンニ・マルゾッキとフランカ・ライモンディのデュエット、15245はフランカ・ライモンディのそろ; *レコードではジャンニ・マルゾッキ (vm)とクララ・ヴィンチェンツィ (vf)

彼と彼女 Lui e lei (S.Simoni – A.Faccenna – M.Casini) 出版社 R.P.D. クララ・ヴィンチェンツィ (vf) Clara Vincenzi (CETRA - CETRA) DC-6468 [SP]

            DC-6468DC-6468

詩と音楽 Parole e musica (N.Rastelli – F.Silvestri) 出版社 NAZIONALE ルチアーナ・ゴンザレス (vf) Luciana Gonzales (CETRA - CETRA) DC-6468 [SP]

とどまる人 Qualcosa è rimasto (Pinchi – L.Spaggiari) 出版社 MONDIA MUSICトニ-ナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) DC-6466 [SP]

黄金の夢 Sogni d'or (A.E.Costanzo – P.Maschio) 出版社 SUPERBAフランカ・ライモンディ (vf) と クララ・ヴィンチェンツィ (vf) Franca Raimondi & Clara Vincenzi (FONIT – FONIT 15235[SP];CETRA - CETRA) DC-6471 [SP]

            DC-6471DC-6471a

運命の小列車 Il trenino del destino (B.Cherubini – M.Schisa – M.Trama) 出版社 TRILLOフランカ・ライモンディ (vf) Franca Raimondi (FONIT - FONIT) 15234 [SP]

青銅の小列車 Il trenino di latta verde (E.Neri – L.L.Martelli – M.Gigante) 出版社 ACCORDOクララ・ヴィンチェンツィ (vf) Clara Vincenzi (CETRA - CETRA) DC-6467 [SP]


http://www.music-bazaar.com/greek-music/albums/view/id/159798/name/Sanremo-1956

前回、新人コンテスト形式にして新曲コンクールとしての音楽祭に「矛盾を抱えてしまい・・・・救済策としてそれぞれの曲を、ゲストに招いたオーケストラに演奏してもらい、曲の優劣を審査する方法が取られました。」と書きましたが、どのオーケストラになったかはまだお話いていませんでした。
 第1回~4回目までチニコ・アンジェリーニ楽団がメイン楽団に入り、放送局の楽団であり彼の楽団専属歌手が歌っていたことを考えると、そう簡単に他の有名楽団に依頼することができなかった筈です。
そこで出演依頼をしたのがイギリスのトップ楽団であったジョージ・メラクリーノに決まったようですが、イタリアの音楽関係者から相当な抵抗があったと書かれています。自分達の権益が侵されるわけなので当然です。その後60年代に外人歌手が出場して歌いましたが、そう簡単なことでなかったのは想像できると思います。

HW-1015(1957. 5. ANGEL -東京芝浦電気工業) “サン・レモのメラクリーノ(GEORGE MELACHRINO AT SAN REMO)”

            HW-1015HW-1015  

1窓を開けて                APRITE LE FINESTRE
2さあ音楽 (ノータ・ペル・ノータ)   NOTA PER NOTA
3あやまち (あの人のせい)      LA COLPA FU
4なんて美しい (それは美しい)    E' BELLO
5太陽を浴びて (太陽へのことば)  HO DETTO AL SOLE
6人生は嘘ばかり (人生は偽りの花園)LA VITA E' UN PARADISO DI BUGIE
7言葉と音楽 (詩と音楽)        PAROLE E MUSICA
8お気に召すなら愛して (よかったら愛して) AMAMI SE VUOI
9枕を寄せ合って (枕の上の二つの頭) DUE TESTA SUL CUSCINO



またRAIの子会社で最初は独占状態だったチェトラが第5回大会は出場曲(ダブル・キャストなの2倍)の40%しか占められなくなっていました。そこで考えたのがRAI主催の新人コンテストで出てきた歌手に歌わせ、再度チェトラの天下にしようとしたのでしょう。けれど肝心の優勝はフォニットのフランカ・ライモンディが取ってしまいました。彼女ひとりがフォニットと契約していたのです。2年後チェトラとフォニットが合併していますので、当時から近い関係にあったことが考えられます。
翌年57年の音楽祭にクラウディオ・ビルラがヴィス・ラディオからチェトラに移籍し、出場し優勝していますが、チェトラとしても何が何でも優勝曲を確保しなければならなかったのでしょう。しかし時代も変わり、カンツォーネ界の状況もどんどん新しく変わっていきます。この56年に8位となった“ミュゼット”を作った「ミスター・ヴォラーレ」のドメニコ・モデオゥーニョが58年から出場し、「甘美な」カンツォーネの時代に終わりを告げられます。
この頃になると皆さんのよくご存じの曲や、歌手が登場します。もう暫くお待ちください。





・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、あ出場曲と表現します。
・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。
・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。
・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  10

 

サンレモ音楽祭史上でも全く異質の大会となりました。新人のみのシングル・キャスト・コンクール形式で行われました。新人歌手のコンクールの要素を入れたため、二人で歌い、曲の出来不出来を審査すると、新人の力量が測れないという矛盾を抱えてしまいました。

救済策としてそれぞれの曲を、ゲストに招いたオーケストラに演奏してもらい、曲の優劣を審査する方法が取られました。この方式は1970年代にシングルキャスト方式に戻った時に再び採用されることになります。

単独新人コンクールもすることは新曲コンクールというサンレモ音楽祭の基本理念にそぐわなかったと見え、この1回のみで終わり、元の形に戻りますが、その後の音楽祭自体は大きく変貌することになります。

 

第6回 1956年3月8日(木)~10日(土) サンレモ市カジノ付属劇場

司会:ファウスト・トメイ (Fausto Tommei) と マリア・テレジア・ルータ (Maria Teresa Ruta)

楽団指揮:ジャンニ・ステッラーリ (Gian Stellari)

再演奏楽団:イギリス、ジョージ・メラクリーノ楽団(George Melachrino)

オーガナイザー:イタリア放送協会(RAI) ;サンレモ市カジノ場(Casino di Sanremo)

形式:出場曲数20曲。1曲1歌唱で2夜に各10曲を歌い、それぞれ10曲をジョージ・メラクリーノ楽団が再演奏し、各夜5曲ずつを入賞曲を選出し、最終夜に優勝以下得票により順位をつけ決定する。.

出場歌手は新人6人 Cetra 5; Fonit 1

 

Franca Raimond   Tonina Torrielli   Ugo Molinari
フランカ・ライモンディ (FONIT)     トニーナ・トリエリ (CETRA)       ウーゴ・モリナーリ (CETRA)

 

<優勝> 窓を開けて Aprite le finestre (Pinchi - V.Panzuti) 出版社 CIELO フランカ・ライモンディ (vf) Franca Raimondi (FONIT - FONIT) 15234;15245;15246 [SP] , SP-30019[45]

 

1524615246 SP-30019SP-30019

 

<2位> よかったら愛して Amami se vuoi (M.Panzeri - V.Mascheroni) 出版社 MASCHERONI トニーナ・トリエリ (vf)  Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) DC-6464 [SP]

 

DC-6464DC-6464b

 

<3位> 人生は偽りの花園 La vita è un paradiso di bugie (D.Calcagno - N.Oliviero) 出版社 SOUVENIR ルチアーナ・ゴンザレス (vf) Luciana Gonzales (CETRA - CETRA) DC-6469 [SP]

 

DC-6469DC-6469b

 

<入賞曲>

4位 空の讃歌 Il cantico del cielo (A.Testa - C.A.Rossi)出版社 ARISTON トニーナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) DC-6462 [SP]


DC-6462DC-6462

 

5位 あの人のせい La colpa fu... (Gippi - L.Berretta - E.Sciorilli)出版社 FORTISSIMO ウーゴ・モリナーリ (vm) Ugo Molinari con Luciana Gonzales, Tonina Torrielli, Franca Raimondi, Clara Vincenzi (CETRA - CETRA) DC-6463 [SP]

 

DC-6463DC-6463

 

6位 愛着の森 Il bosco innamorato (G.C.Testoni - G.Kramer) 出版社 KRAMER トニーナ・トリエリ (vf) Tonina Torrielli (CETRA - CETRA) DC-6465;DC-6486 [SP]

 

DC-6465DC-6465

 

7位 倒された木 Albero caduto (G.Fiorelli - M.Ruccione) 出版社 RUCCIONE ウーゴ・モリナーリ (vm) Ugo Molinari (CETRA - CETRA) DC-6467 [SP]

 

8位 ミュゼット Musetto (D.Modugno)出版社 CURCI ジャンニ・マルゾッキ (vm) Gianni Marzocchi (CETRA - CETRA) DC-6464 [SP]

 

DC-6464DC-6464a

 

9位 ノータ・ペル・ノータ (さあ音楽) Nota per nota (G.Viezzoli)出版社 TIBERウーゴ・モリナーリ r(vm) Ugo Molinari (CETRA - CETRA) DC-6471 [SP]

 

DC-6471DC-6471b

10位 枕の上の二つの顔 (枕を寄せ合って) Due teste sul cuscino (G.C.Testoni - F.Rendine) 出版社 EA Rウーゴ・モリナーリ (vm) Ugo Molinari (CETRA - CETRA) DC-6470 [SP]

 

 

今まで開催時期は1月下旬でしたが、第6回は3月上旬になってしまいました。これはイタリアが記録的な寒波に襲われ、サンレモのあるリグリア州はじめシチリア島のパレルモでも雪が降り全国的な大雪になりました。1990年第40回大会にミア・マルティーニ(Mia Martini)が"56年の降雪(La famosa Nevicata del '56)"という曲を歌っています。1991年の湾岸戦争で、イタリア国内でテロ事件があり開催が懸念されましたが、予定通りに行われましたので今のところ開催日変更はこの56年が唯一のことです。

この大会が新人コンクールも兼ねていたと最初に書きましたが、前年に国営放送RAIはサンレモ音楽祭出場権をかけた全国新人歌手をしました。応募者総数6646人で最終選考に12人が残り6人が選ばれるという過酷なことになりました。

音楽祭に出場できなかった内で歌手として確認できたのは、サンドラ・トラマリーニ(Sandra Tramaglini)、フランカ・フラーティ(Franca Frati)、フェルナンダ・フルラーニ(Fernanda Furlani)、ロエロ・ビリンデッリ(Roero Birindelli)とその中で大歌手となったミランダ・マルティーノ(※)もいました。サンレモ音楽祭に出場できた歌手ではウーゴ・モリナーリとトニーナ・トリエリが前評判が高く、出品曲をうたって欲しいと依頼が集中したそうです。(勿論、楽曲のコンテストなのでオーガナイザーが不公平にならないように割り振ったそうですが)。

優勝したフランカ・ライモンディだけがフォニットの所属となったのか分かりませんが(他の5人はチェトラに所属)、RAIの子会社チェトラから優勝歌手を出したかった筈で、皮肉な話です。フランカ・ライモンディやウーゴ・モリナーリの音楽祭の曲はヒットしましたが、ほぼ「一発屋」状態でトニーナ・トリエリ以外はその後活躍はしていません。それよりは出場できなかったミランダ・マルティーノの方が有名歌手となりました。

この大会で注目されたのは実は他の曲だったのです。ジャンニ・マルゾッキが歌って8位になった"ミュゼット"でした。作ったのがドメニコ・モドゥーニョで当時新進の「シチリア・ジプシーの貴公子」と言われ現代の吟遊詩人歌手として注目されており、その人の作品が入賞したのでした。書き忘れていました。これを歌ったジャンニ・マルゾッキはその後、吹替え声優としてミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」などでは歌も吹替えで歌い重要な仕事をしていす。

 

 

(※)私のブログ「ミランダ・マルティーノ(MIRANDA MARTINO) モリコーネのアレンジ曲で再注目(1)、(2)」

http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/4065377.html と http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/4088185.html をご覧ください。

 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。




サンレモの歌手たち 15  クララ・ヤイオーネ、 ラジオ・ボーイズ、 トリオ・アウロラ

 

日本に馴染みのない、もちろん国内盤も出ていない女1人の歌手に男声と女声のコーラス・グループ1組づつを紹介します。そんな関係で画像が一つもないのが寂しいところです。

 

★クララ・ヤイオーネ(Clara Jaione)

1927年9月25日~2011年10月6日ローマ生・没、40年代から50年代に人気のあった歌手です。 

                                        Clara Jaione 

わずか4才の時、既に幼稚園の講堂で歌い、踊っていました。彼女はバレエを習い、愛好家の前で踊っています。 一言で言えば、クララは芸能の血筋だったのでしょう。

1947年には、ラジオ・ローマの新人歌手育成コースに入り、最終試験では緊張のため失敗しましたが、チニコ・アンジョリーニは彼女を彼の楽団に入れました。1948年ジュリオ・ラッツィの提案でアルマンド・フラーニャ楽団に入ります。

1949年フラーニャはラリーチ、ラステッリと一緒に彼女のために"グァスコーニャの士官候補生(I CADETTI DI GUASCOGNA)"を作詞作曲し、ラジオ聴取者の嗜好を確かめる第一歩としました。この曲は平和をもたらすためにボローニャに向かった3人のスペイン戦士の事を歌にしました。クララの曲は明快なテーマで、しかも彼女の声は明るく爽やかなので、日本でいえば戦後最初のヒット曲となった"りんごの歌"や映画の主題歌"青い山脈"のように、多くのイタリア家庭のラジオで聞かれました。

1948年から1953年まで彼女の一連の明るく活気ある声にぴったりの洒落た曲を作ったアルマンド・フラーニャ楽団の下、RAIラジオで働いていました。"カラカラ浴場(Alle Terme di Caracalla)"、"Arrivano i nostri"や"ヴィッジュの消防夫(I pompieri di Viggiù)"などの代表曲で分かるように国民から最も人気のある歌手の一人となりました。

1955年ただ一度のサンレモ音楽祭で2曲歌いましたが2曲とも入賞することはできませんでした。戦後の混乱期の中、希望と明るく爽やかさを求めていた聴衆も、色々な歌を求めはじめ、クララの人気も落ちてきたのだと思います。

1956年家族に集中する引退を決めました。潮時を見た良い判断でした。

クララの近況は

1990年彼女のチニコ・アンジェリーニ賞の受賞式に招待されました。

2000年にパオロ・リミティ(Paolo Limiti)のTV番組「Ci vediamo in tivù」のレギュラー・ゲストで芸能界復帰を果たします。それ以降、懐メロ番組や音楽ショーのゲストに度々顔を出すようになりました。

 

クララ・ヤイオーネの国内盤はありません

 

★ラジオ・ボーイズ(Radio Boys)

メンバーはアルフレド・フォラーニ (看護師)、コジモ・ジレ (刑事)、エンリコ・アルフェーロ(中退学生)、アルド・プランディ(風船屋台の行商人)、セルジオ・ポナリーニ (フィアットの工業デザイナーでサッカー選手)、男性5人のコーラス・グループです。 

                                       Radio Boys 

結成当時は仕事の後、RAIで歌うトリノの8人グル-プの少年達でした。1947年春カルロ・プラート(Carlo Prato)が放送に出演するにあたり彼らをラジオ・ボーイズと名付けました。楽団や歌手のバック・コーラスとして重宝されます。1948年彼らが歌う"Ciao Turin"がヒットしました。ピッポ・バルジッツァ(Pippo Barzizza)楽団と映画のサウンド トラックに参加した後、フランチェスコ・フェラーリ楽団と共にサンレモ音楽祭に出場しましたが、翌1956年に解散しました。

 

ラジオ・ボーイズの国内盤はありません

 

★トリオ・アウロラ(Trio Aurora )

イタリアの1940年代、50年代に活躍した女声ボーカル・トリオ。

1941年国営EIARがリディア・マルトラーナ(Lidia Martorana 1928年生)、クラウディア・ダリーロ(Claudia dell'Aglio 1926年生)、ピナ・ダッドゥツィオ(Pina D'Adduzio 1927年~2010年トリノ生・没)で結成したトリオです。 

                                        Trio Aurora

トリオ・レスカーノの歌の先生カルロ・プラートが国営放送EIARの純白の声聖歌隊(coro delle voci bianche)からの選択し結成しました。十代半ばの若者でしたが、すぐにジェノヴァ生まれのエルネスト・ボニーノ(Ernesto Bonino)やナタリーノ・オット(Nella Colombo)の曲を、自分のものとして歌い始め、シルヴァーナ・フィオレージ(Silvana Fioresi)、アルベルト・ラバリアーティ(Silvana Rabagliati)、リリア・シルヴィ(Lilia Silvi)など、当時最も有名な歌手と一緒に歌いヒットを出しました。活動期間は戦時中1941年~1943年の間でした。

1946年以降トリオ・レスカーノの後継争いに生き残るため、幾つかの変更を行い、1948年リディア・マルトラーナはソロとして独立し"愛のくちづけ(Amore baciami)"などのレコードを出しました。

その後、1950年から59年までウィリアム・ガラッシーニ、フランシス・フェラーリ、ピッポ・バルジッツィなどのラジオ楽団と仕事をします。そしてクァルテット・スターズ(SANTINA DELLA FERRERA)※のサンティーナ・デッラ・フェルラーラ(Santina Della Ferrara)を入れて再出発。1955年アルベルト・センプリーニ楽団と共にサンレモ音楽祭に出場し、1959年に解散をしました。

 

※クァルテット・スターズ(SANTINA DELLA FERRERA)はサンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  4 http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/7752651.html をご覧ください。

 

トリオ・アウロラの国内盤はありません

 

 

※サンレモ音楽祭のデータは随時訂正、追加の修正をしています。ダウンロードなどしている方は、時々見直してメンテナンスすることをお薦めします。
 昨日も貴重な資料が載っているサイトを見つけ、特に第5回のデータを修正・追加しました。

Istituto Centrale per i Beni Sonori ed Audiovisivi (音響と視聴覚遺産中央研究所)

http://opac2.icbsa.it/vufind/Author/Home?author=Vincenzi%2C%20Clara

歌手や曲目で検索可能です。興味のある方は一度見てください。




サンレモの歌手たち 14  ブルーノ・ロセッターニ、 ネッラ・コロンボ

 

日本に馴染みのない、もちろん国内盤も出ていない男女1人づつの歌手を紹介します。そんな関係で画像が一つもないのが寂しいのですが、ブルーノ・ロセッターニがサブリナ・レコードを興しドリ・ゲッツィの発掘した等色々興味あることが発見できました。

 

★ブルーノ・ロセッターニ(Bruno Rosettani )

1923年2月19日ローマの北東アドリア沿岸の小都市ポルト・サンテルピディオ生、1991年10月14日生地に近いチヴィタノーヴァ・マルケで没。歌手、音楽プロデューサー。


                   Bruno Rosettani
                 

彼は靴の商人ジャコモと小学校の先生カロリーナ・カタリーニの子として生まれます。若い頃、故郷で熱狂的な音楽集団の先頭に立ち資金集めのミュージカル公演を計画します。後に会計士の資格を取り、1944年はミラノの大学での経済と経営を学び、ジャーナリスト、広報担当者の資格も取ります。

ミラノで知合いのゴルニ・クラメール(Gorni Kramer)、フランコ・チェッリ(Franco Cerri)やガレリア・デル・コルソの音楽出版社に出入りしている連中で公演場所のないメンバーのために日曜日の朝、プライベート・クラブ「ミラノ・ホット・クラブ(l'Hot Club Milano)」を始めます。

ちょうどその頃ドリウム(DURIUM)は才能ある歌手を探しており、彼は打って付けでした。47年ドリウムの後押しでセグリーニ楽団のラジオ・オーディションを受け合格しました。

50年代の初め、アメリカ音楽が流行るとフランコ・フェルラーラ楽団はブラジル音楽とジャズで頭角を現し、RAIの放送楽団になり彼も楽団と共に毎週ラジオに生出演します。

1953年にフェラーリはサヴォーナ出身の二人の若い姉妹ミロザとジョヴァンナ・ブレンジョ(Mirosa e Giovanna Blengio)が歌っていた"Dieci canzoni d'amore"を偶然にラジオで聞き、心にとめていました。この明るいデュオ・ブレンジョとブルーノ・ロセッターニを組合わせは素晴らしいアイデアでした。

フェラーリは、大都会で素朴な二人の若い女の子がいることを心配して、多くの時間彼女達と一緒にいるブルーノとジェノヴァ出身の歌手ロミオ・カッサーラ(Romeo Casella)に厳しい管理まかせました。何のことはない「狼に仔羊たちの番をさせた」と同じことでした。

1955年ただ一度3曲を歌ったサンレモ音楽祭出場後、10月に彼はデュオ・ブレンジョ(Duo Blengio)のミロザと、双子の妹ジョヴァンナとロミオの2組で結婚式を挙げ話題となりました。何の問題もなく、目出度しめでたしで、その後フロー・サンドンスやドゥリウムに移籍したネッラ・コロンボと共演します。

1959年レコード・レーベルのサブリナ(SABRINA)とサブリナ音楽出版を設立し、ネッラ・コロンボと契約、後にドリ・ゲッツィ(Dori Ghezzi )の才能を発見しました。妻のミロザは57年に長男ロベルト、61年に長女アンナリーサを出産し、歌手を引退しました。

ブルーノは1991年に亡くなり、2011年没後20周年記念で家族によって故郷のアピ劇場で旧知のジャズ・メン達を集めて追悼チャリティー公演をしました。

 

ブルーノ・ロセッターニの国内盤はありません

 

ネッラ・コロンボ(Nella Colombo)

1927年1月18日ミラノの郊外クサノ・ミラニーノ生、1999年10月4日トリノ没。

                   Nella Colombo

1941年トリノの「ジュゼッペ・アッリエヴォ」学校に通い、彼女は歌の才能が秀でていました。そこで16歳の最小年齢規定があるのにも拘らず同級生が密かに国営放送EIARの新人コンテストに応募しました。"星空の語らい(Parlami sotto le stelle)"を歌いエルザ・ペイローネ(Elsa Peyrone)やトリオ・アウロラ(Trio Aurora)と共に受賞してしまいます。失格となるところでしたが巨匠カルロ・プラートの研究生として将来ラジオで歌うを認められました。

1942年カルロ・ゼメ(Carlo Zeme)楽団から公式デビューをラジオでし、6月20日"Spolverando il pianoforte"でチェトラからレコード・デビューしました。45年にパーロフォンに移籍します。

1945 年エロス・ショレルリ作曲の"Il perduto amore (in cerca di te)"で自分だけに千載一遇のチャンスを掴みます。終戦後もラジオ歌手として活動を続けます。時期は不明ですが47年にはコロムビアからレコードを出しています。

1948年ピエロ・ブルーニ(Piero Bruni)と結婚し、10月20日ジェノヴァで息子ダニーロが生まれますが、直ぐに二人は破局を迎えます。

 1953年現役復帰、ブルーノ・ロッセリーニとデュオ・ブレンジョと一緒にフランチェスコ・フェラーリ楽団に参加しました。54年カルロ・サヴィーナ楽団に移りRAIラジオのレギュラーを得ました。  そして55年サンレモ音楽祭にただ1度の出場ですが2曲歌うことが出来ました。サンレモ音楽祭後だと思いますが、55年にCGDからレコードが出ています。サンレモ音楽祭で歌った曲がどのレコード会社から出たのか確認が取れていません。

56年から59年までドゥリウムに在籍します。この頃の曲が一番多くCD化したコンピレーションで出ています。59年ドゥリウムで一緒に仕事をしたブルーノ・ロセッターニの設立したサブリナに移籍します。この頃イタリアの人気が落ちてきましたが、スペインでの人気が高く、日本ではマリソル(MARISOL)やモセダデス(MOCEDADES)のいた会社で知られるスペインのサフィロ(ZAFIRO)と契約し、それは10年ほど続きました。

1972年~74年イタリアのカリブ海クルーズ船「ミケランジェロ」号や「レオナルド・ダ・ヴィンチ」号に乗り歌っています。また76年以降トリノ方言の演劇の仕事に関わっていました。

 

ネッラ・コロンボ国内盤はありません




サンレモの歌手たち 13  ナルチソ・パリージ、ヌッチア・ボンジョヴァンニ、ブルーノ・パレージ

  今回は三人の歌手を紹介しますが、日本で曲は出ているものの両方とも地味な存在で、名前が知られていません。ナルチソ・パリージは映画での名前の方が多いようでナルシソ・パリージとなっているようです。

 

★ナルチソ・パリージ(Narciso Parigi)

1927年11月29日フィレンツェの北隣の小都市カンピ・ビセンツィオ(Campi Bisenzio,)生、歌手で俳優。

 
       
                  Narciso Parigi        

若くしてオペラを学び、1944年ランベルト・アーリア(Lamberto Ariani)の楽団からフィレンツェ・ラジオでデビュー、すぐにラジオ歌手となりました。グイド・チェルゴーリ(Guido Cergoli)やネッロ・セグリーニ(Nello Segurini )が率いるRAIの楽団、特にフランチェスコ・フェラーリ(Francesco Ferrari)とは1945年~65年の間仕事を続けます。

 絶頂期のラジオでフィレンツェの歌の"フィレンツェの朝の歌(MATTINATA FIORENTINA)"、"恋のひととき(Un'ora sola ti vorrei)"等を歌い実績を積みました。55年サンレモ音楽祭に出場し2曲歌い両方とも入賞を果たします。

 その後彼はフィオレッラ・アッレグリーニ(Fiorella Allegrini)と結婚して、57年に娘ダニエラ(Daniela)が誕生します。

2回目で最後の62年サンレモに出場しましたが、ジョルジョ ・コンソリーニとの"わたしの人生"は参加曲でした。翌年63年第11回ナポリ音楽祭でヌンツィオ・ガロ(Nunzio Gallo)と"アンナマリア(ANNAMARIA)"を歌い第3位に、 "同じマリア('A STESSA MARIA)"で入賞しましたが、 "'A fenesta 'e rimpetto"は入賞しませんでした。

50年代と60年代初頭にいセルジオ・コルブッチ(Sergio Corbucci)監督の「Terra straniera」(1952)、ロベルト・ビアンキ・モンテロ(Roberto Bianchi Montero)監督の 「Gagliardi e pupe」、(1958 年) に出演しました。

70年代半ば、ウゴリーノ神父が運営しているフィレンツェのローカル放送局チャンネル48で有名歌手のインタビューや子供向け放送局CANALE DEI BAMBINIで働いていました。

永年の功労で、2012年 3月、フィレンツェ芸術賞を受賞しました。

 

デビュー曲は分かりませんが46年頃までCETRAに所属、以降毎年移籍します。FONIT、CGD、49年~53年の間再びCETRA、1953年12月に(PATHE'(V.C.M.)に移籍し70年代初めまでの約20年ほど移籍しました。

 

彼の国内盤は

OR- 2378 (1969年10月21日 ODEON -東芝音楽工業)天使のコインのテーマ(TRE' FRANCHI DI PIETA')/天使のコイン(TRE' FRANCHI DI PIETA') ナルチソ・パリージ/オリジナル・サウンドトラック

 

OR- 2378OR- 2378 KIL-1002(MED・BAR- 002)KIL-1002

 

KIL-1002(MED・BAR- 002) (CD 2006年MEDIANE - キング・インタ-ナショナル (MEDIANE,Italy)) バー・ローマ (BAR ROMA)

11. ローマのギター (CHITARRA ROMANA)

 

HW-1035 (1959年1月ANGEL - 東京芝浦電気工業) イタリアの空の下で (BENEATH ITALIAN SKIES) 25cmLP

2. チ・チ・ウ・チ(CI CIU CI (CANTAVA UN USIGNOL)) 原盤 PATHE' (V.C.M.)

ジャケット画像はヌッチヌッチア・ボンジョヴァンニの項をご参照

 

 

★ヌッチア・ボンジョヴァンニ(Nuccia Bongiovanni)

1930年4月14日~1970年9月2日ミラノ生・没。歌手。ジャンピエロ・ボネスキ(Giampiero Boneschi)夫人

                 Nuccia Bongiovanni  

 1947年頃から歌いだし、既に48年にはレコード録音し、クラウディオ・ビルラとのデュエット盤も出ています。49年エンツォ・チェラジョーリ(Enzo Ceragioli)楽団から正式デビュー、PARLOPHONからでした。その頃の彼女のご贔屓はドリス・デイ(Doris Day)でした。

 52年にCETRAに移籍します。55年サンレモ音楽祭にだた一度の出場で3曲を歌い、ブルーノ・パレージとデュエットした"谷間の歌"が第3位となりました。

57年マイク・ボンジョルノ司会のTV音楽ショー番組「「イル・ムシキエーレ(IL Musichiere)」に初めて歌手としてレギュラー司会をします。5年間いたチェトラからPOLYDORに移籍します。

58年アッシジ新曲音楽祭(56年~63年まで開催)で"種を蒔く人(SEMINA SEMINATORE)"を歌いました。この音楽祭はエンニオ・モリコーネはじめカトリック教の強力な支持する芸術家が支えていました。この曲をRCA ITALIANAから出し、同年RICORDIに移籍しますが、59年COMBOから1枚レコードを出しています。

60年代初頭ジャンピエロ・ボネスキ(Giampiero Boneschi)と結婚し、夫のいるRICORDIでは62年までレコードを出しますが、双子の娘を出産、歌手生活から引退します。1970年早すぎる生涯の死を迎えました。

 

ヌッチア・ボンジョヴァンニの国内盤

 

HW-1035 (1959年1月ANGEL - 東京芝浦電気工業) イタリアの空の下で (BENEATH ITALIAN SKIES) 25cmLP

3. キスして(AMORE BACIAMI) 原盤 PARLOPHON (CARISCH)

 

HW-1035HW-1035 BVCM-37063^72BVCM-37063^72b

 

BVCM-37063^72 (CD 2000年3月23日 RCA - BMGファンハウス) エンニオ・モリコ-ネ・クロニクル (THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES) 10CD Box
4. 種を蒔く人 (SEMINA SEMINATORE)

 

SR- 601~2 (1971年1月15日 SEVEN SEAS - キング) サンレモ音楽祭のすべて第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO (I))
2-1. 谷間の歌 (CANTO NELLA VALLE) ブル-ノ・パルレーシと ヌッチア・ボンジョヴァンニ

ジャケット画像はブルーノ・パレージの項をご参照

 

K30Y- 2168 (CD 1988年11月5日 SEVEN SEAS - キング) 決定盤!カンツォ-ネ・ベスト20 (CANZONE BEST 20)
1-13. 谷間の歌 (CANTO NELLA VALLE) ブル-ノ・パルレーシと ヌッチア・ボンジョヴァンニ

ジャケット画像はブルーノ・パレージの項をご参照

 

 

★ブルーノ・パルレージ (Bruno Pallesi )

1921年1月1日 ~1987年6月7日ミラノ生・没、歌手、作詞家、レコード・プロデューサー。

1939年ミラノのダンスホール等で"スペインの曲"Yo te quiero"を歌い最初の成功をえました。ナタリーノ・オットのファンで、この事はカルロ・ゼーメ(Carlo Zeme)楽団へ入るのに役立ちます。

                  Bruno Pallesi

第二次世界大戦中にV.d.P.(V.C.M.)からラジオで歌手としてデビュー、ドイツ映画音楽"あなたのそばに(Da te era bello restar : BEI DIR WAR ES IMMER SO SCHOEN)"、"ピ-ノ・ソリタリオ(Pino solitario)"を歌い人気者になりました。40年代の後半からは作詞活動を開始します。

サンレモ出場は第5回の4曲のみですが、作詞した曲は10曲提出しています。また外国曲にも多くのイタリア語の歌詞を付けています。

1971年にポラリス・レコード(POLARIS)を興しバンドのロマンス(I ROMANS)を育てたり、75年第25回サンレモ音楽祭の芸術監督もしました。

 

彼の国内盤は

 

SR- 601~2 (1971年1月15日 SEVEN SEAS - キング) サンレモ音楽祭のすべて第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO (I))
2-1. 谷間の歌 (CANTO NELLA VALLE) ブル-ノ・パルレーシと ヌッチア・ボンジョヴァンニ

 

SR- 601~2SR- 601~2a GXF-  81~90GXF-  81~90a

 

K30Y- 2168 (CD 1988年11月5日 SEVEN SEAS - キング) 決定盤!カンツォ-ネ・ベスト20 (CANZONE BEST 20)
1-13. 谷間の歌 (CANTO NELLA VALLE) ブル-ノ・パルレーシと ヌッチア・ボンジョヴァンニ



サンレモの歌手たち 12  ユーラ・デ・パルマ

 あまり馴染みのない歌手が多い1955年の出場者ですが、今回のユーラ・デ・パルマは日本でも知る人ぞ知る歌手です。ただしカンツォーネ歌手でなくジャズ・シンガーとして、場合のよってはジュラ・デ・パルマ(パロマ)としてかも知れません。イタリア読みでは「ユーラ・デ・パルマ」です。

 

ユーラ・デ・パルマ(Jula De Palma)

本名ヨランダ・デ・パルマ(Iolanda De Palma)、1932年4月21日ミラノ生。カンツォーネ、ジャズ歌手。
             
 

                   Jula De Palma         

5才のとき父に呼ばれ東アフリカに行き、その後家族そろってエチオピアのアジスアベバに引越ししました。若いヨランダはそこで40年代のジャズとアフリカの歌の情熱に出会いました。終戦後彼女はイタリアに引揚げ、ミラノの高校に入学、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語の四カ国語を習得しています。

 ある日ヨランダは持っているお小遣い全部でレコードを買うため母とにお店に出かけました。店のもう一方に、若い歌手でディレクターのテディー・レーノ(※)がいることも知らずに。彼女はアジスアベバで家族全員で歌った曲を歌っているテディー・レーノのレコードを買いました。彼は彼女の声を聞き、レリオ・ルッタッツィ(※)にもヨランダの声を聞かせたいとその夜の内に伝えてきました。

 1949年CGDと契約し、アメリカのスウィング・ジャズを身に付けたイタリアにない声と感性を持った歌手ユーラ・デ・パルマとしてラジオ・デビュー、レコードはフランスの曲PV-1290 (1949年3月23CGD - CGD)Douce France(シャルル・トレネの曲)/Danse avec moiでデビュー、SP盤は49年中で少なくとも5枚出されています。

 初期(特にCGD時代)はカンツォーネは勿論、シャンソンをフランス語で歌う盤も多かったようです。しかし"オン・ア・スロー・ボート・トゥー・チャイナ(On A Slow Boat To China)"、"セプテンバー・ソング(September Song)"、"ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド(You Go To My Head)"やナット・キング・コールの歌った"I Know That You Know"をSPに残しています。

 彼女が本格的にジャズ・ボーカル歌手と言われるようになったのはV.C.M.時代の1958年~59年に出した2枚のEP盤"JULA IN JAZZ"、"JULA IN JAZZ 2"と考えてよいと思っています。そして60年代後半、引退する74年までのコンサートはジャズ・ヴォーカルを中心としたものだったので、特にその印象は強烈だったのかもしれません。門外漢の私には「ジャズ・ヴォーカルは何ぞや」が分かっていませんので、それを考えながら別の機会のもう一度ユーラ・デ・パルマを見ていきたいと思います。

 話は彼女の経歴に戻しましょう。彼女は国営放送RAIに出演出来る歌手になったほか、レリオ・ルッタッツィ、カルロ・ロッフレード(Carlo Loffredo)、そして日本では伊東ゆかりの"恋する瞳(L'AMORE HA I TUOI OCCHI)"やミルバの"悲恋(NESSUNO DI VOI)"の作曲家として知られ、当時人気のジャズバンド・リーダー、ゴルニ・クラメール(Gorni Kramer)の楽団ソリストにもなりました。そして1955年のサンレモ音楽祭にCGDから出場(既に歌手歴6年目)し、4曲歌い"影"が入賞しました。

 その後、サンレモ音楽祭にはCOLUMBIA (V.C.M.) から第7回3曲(入賞出来ず)、第7回特別際1曲(6位)、第9回3曲("あなた(TUA)"が4位)、"あなた"は最初の一ヶ月で10万枚売れた彼女の最大のヒットであり代名詞となった曲でもありました。しかし皮肉なことにこの大成功した"あなた"が彼女に重くのしかかり、引退まで背負うことになります。国営放送局RAIから男女関係を連想させる余りにも「官能的」過ぎる歌とされ、スキャンダルとして彼女の曲は批判の的となり、10年間国営放送RAIに出られませんでした。

 1959年音楽家のカルロ・ランツィ(Carlo Lanzi)と結婚しローマに移り住みます。翌60年の第10回2曲(すべて入賞)で出場し、ドゥリウムに移籍した第11回1曲が最後のサンレモ音楽祭となりました。すぐにRCA ITALIANAに移籍、その後はマイナーのKARIM、SURFそしてチェトラ、パレード、最後にRCA ITALIANAへ戻り歴史的ライブとヴォーカルの名盤を出します。

このようなことになりながらも彼女が10年間人気を保てたのは、旧態然としたカンツォーネ界に対し、ジャズに対する情熱と時代を感じ取る感性で弛まぬ研究と努力を重ねた結果でした。

 ユーラ・デ・パルマは1970年、日本では"あまい囁き(PAROLE PAROLE)"やマカロニ・ウェスタンの、またコロムビア時代のヒット曲"ピッコリシマ・セレナータ(PICCOLISSIMA SERENATA)"の作曲家として知られているジャンニ・フェッリオ(Gianni Ferrio)の協力を得て、「システーナ劇場(Teatro Sistinaリサイタルを開きます。彼女のジャズ・シンガーとして蘇った集大成のコンサートであり、また後世に残るリサイタルのライヴ盤(PSL-10456 RCA - RCA ITALIANA 1970年)として多くの人に記憶されました。

PSL-10456PSL-10456 RAI-001RAI-001

 最後のテレビ出演は1974年3月16日~5月11日毎土曜日の夜9時から放送されたミーナとラファエラ・カーラが司会をする音楽番組「MILLELUCI」でした。彼女は司会する二人とトリオ・レスカーノ(TRIO LESCANO)の"トゥリ・トゥリパン(TULI TULI PAN)"を歌うなど最高のパフォーマンスを見せました。

 ユーラ・デ・パルマの最後のコンサートは74年12月シチリアのパレルモとシラクーサの中間にあるカターニア(CATANIA)で行われました。そして永住のため夫の待つカナダに旅立ちました。彼女は引退の理由を「私がまた"夏の中"にいる間に辞めたかった」と語っています。

 

 

ユーラ・デ・パルマの国内盤

LL-   156(1959年4月 COLUMBIA - 日本コロムビア) ピッコリシマ・セレナータ(PICCOLISSIMA SERENATA)/ドマニ(DOMANI

 

LL-   156LL-   156 YL-3027YL-3027

 

YL-3027(1958年COLUMBIA - 日本コロムビア)"地中海めぐり~世界民族音楽シリーズ [地中海編](MEDITERRANEAN CRUISE IN MUSIC)" 30cmLP

10. コメ・プリマ(COME PRIMA

 

JET-4010(1962年TOP RANK - 日本ビクター)"スクリーン・テーマ・イタリアーナ(ITALIAN SCREEN THEMES)" 25cmLP

3. 小さなじゃがいも(PATATINA)

 

JET-4010JET-4010a  GXF-  81~90GXF-  81~90a

 

GXF-  81~90(1979年2月5日SEVEN SEAS - キング)"サン・レモ音楽祭大全集(ITALIAN SCREEN THEMES)" 30cmBOX10LP

2-10. あなた(TUA)

2-16. 二人よ永遠に(NOI)

 

NFA-91801^10 (1991年JAZZY - ジャジー・プランニング)"エンサクロペディア・オブ・カンツォーネ(ENCYCLOPEDIA OF CANZONE)" BOX10CD 非ライセンス商品

1-19. あなた(TUA)

 

     NFA-91801^10NFA-91801~10

 

 

 

 

※サンレモの歌手たち 7 テディー・レーノ (http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/7850104.html) をご覧ください。

また

レリオ・ルッタツィの関連事項は私のブログ「ジリオラ・チンクェッティ~アルバム・コレクション(20)」(http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/6820431.html)にも書いてあります、ご参照ください。

 

 

書くにあたり下記のサイトを参考にいたしました。

ユーラ・デ・パルマ公式ホーム・ページ
http://www.juladepalma.com/ 

WIKIPEDIA ITALIA "JULA DE PALMA"
http://it.wikipedia.org/wiki/Jula_De_Palma

IL DISCOBOLO "JULA DE PALMA"
http://www.ildiscobolo.net/DE%20PALMA%20JULA%20HOME.htm 

JULA DE PALMA di Massimo Emanuelli
http://www.storiaradiotv.it/JULA%20DE%20PALMA.htm 

DISCOS "JULA DE PALMA" Profile
http://www.discogs.com/artist/Jula+De+Palma 

POPsike "JULA DE PALMA"
http://www.popsike.com/php/quicksearch.php?searchtext=JULA+DE+PALMA  




サンレモの歌手たち 11  マリーサ・コロンベール、 アントニオ・バズルト

 

第5回サンレモン音楽祭に出場した歌手で日本ではあまり知られていませんが、イタリアでは中堅クラスの歌手達です。

 

マリーサ・コロンベール(Marisa Colomber)

本名マリーサ・コロンバーラ(Marisa Colombara)1928年 10月5日フェルラーラ市境に近いボローニャのガルリエーラ生、1950年代に人気があった歌手で女優。


                マリーサ・コロンベール  
   

                  
デビューはエミリア=ロマーニャ州のダンス・クラブで父親と一緒に初めてラジオ・トリエステのマイクの前に立った時でした。その後パリ祭とジェノヴァのカラヴェッラ・ドーロ、後で知ったのですが洗練された官能なイヴェントにデビューし、成功を収めました。

1956年のサンレモ音楽祭にだた1度、1曲だけユーラ・デ・パルマのパートナーとして歌った、"影"が8位入賞をしました。その後しばらく歌手として人気を保ちました。

1963年フェデリコ・フェリーニ監督の"フェリーニの8・2/1"でマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)演じるグイド・アンセルミ(Guido Anselmi)の叔母役で映画に出演、65年(日本未公開)マルチェロ・チョルチョリーニ(Marcello Ciorciolini)脚本・監督の「はばかりながら(仮 CON RISPETTO PARLANDO)」、同年のTV番組「スカラムーシュ(仮 SCARAMOUCHE)」にも出ています。このTVシリーズはドメニコ・モドゥーニョが主役スカラ・ムーシュを演じ、毎回短編小説のようにエピソードをつないていく番組で、マリーサ・コロンベールもあるエピソードに出演しています。

デビュー曲は分かりませんが一番古いSPは1954年の

DC-6140 (1954年10月22日 CETRA - CETRA) FOCU VIVO が確認できています。所属レコード会社で確認できるのは1954~58年チェトラ(CETRA)で、ネット上で聞ける曲は、
新年おめでとう(BUON ANNO... BUONA FORTUNA)苺と小さな帽子(FRAGOLE E CAPPELLINI) です。

 

私のブログ「サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  8」第6回データの顔写真に使ったLPジャケットの画像は復刻LP盤PL-448 (1980年 CETRA - FONIT CETRA) I GRANDE SUCCESSI MARISA COLOMBER (収録曲不明)

 

 今回書くのに資料と顔写真用のジャケット画像を探していたところ、意外や近くの大阪梅田のジャズ・クラシック・アナログ専門店ストレイト・レコーズのネット・ショップにサンレモ入賞曲"影"の入ったイタリアの25cmLP盤が出ており、入手できましたの紹介いたします。e Bayでも2008年春に一度でているレア盤のようです。神様のお引合せとしか思えない幸運でした。盤はノイズの出る傷を丁寧に一つ一つツブシてあり、非常に丁寧な仕事をした跡が見取れました。

 

LPA-  68 (1956年CETRA - CETRA)  MARISA COLOMBER

         LPA-  68LPA-  68

PROMESSE DI SEMPRE E DI MAI (V.MASCHERONI - G.C.TESTONI)
L'OMBRA (影) (W.COLI) 1956年サンレモ音楽祭第8位
ORCHIDEA SELVAGGIA (GIORDANO)
NON MI CHIEDERE PERDONO (W.COLI)
LE TRE VIOLETTE (N.RASTELLI - A.FRAGNA) con PIERANGELI e TRIO AURORA
LA MIA CROCE (G.BECAUD - U.BERTINI)
FOCU VIVU (C.CONCINA - V.D'ACQUISTO)
COSI' COSI' COSI' (AHLERT - G.C.TESTONI) con TRIO AURORA

 

 

アントニオ・バズルト(Antonio Basurto)

1917年8月28日イタリアの最南部、長靴の踵の部分に当たるレッチェ生、2007年12月20日ローマ没。

 

                アントニオ・バズルト



 ナポリで勉強し、国営放送EIARの新人コンテストに優勝した1939 年までスカルラッティ合唱を入っていました。彼はサンレモ音楽祭第1回優勝曲"花をありがとう"を作ったサヴェリオ・セラチーニ(SAVERIO SERACINI)の楽団に所属し、その年の7月27日に最新のウンベルト ・ ベルティーニの曲"最後の枯葉(ULTIME FOGLIE)"と"村の娘"で知られているとエルド・ディ・ラッザロの"ラ・ピチニーナ(LA PICCININA)"でデビューします。彼の少し鼻にかかっ力強い声はすぐに彼だとわかります。第二次世界大戦中はドイツの捕虜となり連合国軍の解放まで抑留されていました。

戦後、レナート・ラシェル(Renato Rascel)、アルド・ファブリーツィ(Aldo Fabrizi)やリディア・ ジョンソン(Lydia Johnson)たちとレビュー劇場で働き、1948 年にアルゼンチンで海外デビューし、ラバリアーティ・ナポレターノ(Rabagliati napoletano)のあだ名で知られています。

ナポリの歌手として1951年トトの作った"悪い女(MALAFEMMENA)"を最初に歌いました。この曲は同じ年にマリオ・アッバーテ(MARIO ABBATE)がナポリのピエティグロッダ歌祭で歌い、ジャコモ・ロンディネッラ(GIACOMO RONDINELLA)がヒットさせました。

過去4回ナポリ音楽祭に参加しています。52年第1回"井戸端会議の女達('E CUMMARELLE)"をジーノ・ラティルラを"勇気じゃない....恋だ('E CCAMPANE NAPULITANE)"をアキレ・トリアーニをパートナーとして入賞。たぶんこの後チェトラからヴィス・ラディオに移籍したと思われます。

54年第2回は"3曲歌いましたが入賞できませんでした。56年第4回 "太陽の光を(MANNAME NU RAGGIO 'E SOLE)" で入賞、もう1曲は入賞しませんでした。58年第6回は "怒りのセレナード(SERENATA ARRAGGIATA)" は入賞、もう1曲"O' PALLUNCINO"は参加曲に終わりました。1957年彼はイスキア音楽祭で"LA CANZONE NA CASA A ISCHIA"で優勝しました。

 その後マイナーのIPM(Italmusica Pigini Milano)に移籍し、ローマのほぼ東100kmの山中にあるアブルッツォ(ABRUZZO)地方の民謡を歌っています。なぜナポリからアブルッツォ地方の民謡になったのかよく分かりませんが、これが彼の最後の歌手人生となってしまいます。

 

偶然この秋、手に入れたコあンピレーションにバズルトがIPMにいたころの曲が入っていました。

 

LP・IR-1030 (1972年 ITAL - ITAL RECORD,Canada) ABRUZZO/FORTE E GENTILE (原盤1964年4月29日 LIP-301 IPM - IPM, Italy)

 

          LP・IR-1030LP・IR-1030

1.ZI' NICOLA
2.LA PIGNATELLE
3.LA BALLATA DELLA FISA
4.LA PASTURELLA DELLA MAJELLA
5.MA CHI TE LE FAFFA' PIJA' NU VICCHIE?
6.COCCIA PELATA TWIST
7.CHA CHA CHA ABRUZZESE
8.LA FIJA ME
9.L'UMBRIACONE
10.SALTARELLO MARINARO
11.STORNELLI ABRUZZESI
12.LA LATTERIA
13.NE' ME TUCCA'... TUCCAME
14.PISCATORE... PISCATORE

 1,4,5,7,12アントニオ・バズルト (BASURTO,ANTONIO (vm)); 2,8 マリーザ・ペンナ (PENNA,MARISA (vf)); 3, 9 チェザーレ・デ・チェザーリ (DE CESARI,CESARE (vm)); 6,10ニーノ・ラナッリ (RANALLI,NINO (vm)); 11,14マリア・パッポネッティ (PAPPONETTI,MARIA (vf)) 歌手のクレジットはなく、Web上で見付けたディスコグラフィーから推測しています。

 

 バズルツトがまだナポリターナ歌手として未練があったとこりにつけ込まれたのか、1961年のナポリ音楽祭に150万リラを出せばオーガナーザーの一人になれ、出場できるという買収疑惑事件に巻き込まれました。彼はナポリ音楽祭に出場することなく、自ら歌手生活から引退する道を選びました。

 

アントニオ・バズルトの国内盤はありません。

 

 

次回はユーラ・デ・パルマ(Jula De Palma)の紹介です。




サンレモの歌手たち 10  トゥリオ・パーネ、 クラウディオ・ビルラ

  第5回サンレモン額歳に出場した歌手は14歌手(コーラスも1歌手と数えます)で前回出場歌手は2名で12歌手の紹介をしなければなりません。またどれだけ書いても書きつくせないクラウディオ・ビルラから資料があるか心配なラジオ・ボーイズまで千差万別です。

 それではトゥリオ・パーネから始めましょう。クラウディオ・ビルラはこの場では出場当時のヴィス・ラジオの頃までとし、チェトラ移籍後の話は次の出場した第7回以降にしたいと思います。

 

トゥリオ・パーネ(Tullio Pane)

1926 年1月15日ナポリ生、2001年10月3日ローマの西北60kmの海沿いの都市チヴィタヴェッキア没。ナポリターナ歌手、テノール歌手。

                 Tullio Pane

                  

彼の故郷ナポリのサン・ピエトロ・マジェッラ音楽院で勉強しました、1950年ミラノ・スカラ座のオペラ・シーズン中にテナーの僅かな配役をえて奨学金をうけることができました。

 1952年に国営放送局RAIが主催する新人コンテストで優勝しました。彼はこうしてマエストロ、ジャンニーニの楽団に入り、ナポリ音楽祭の楽団もしているジュゼッペ・アネペータ(Giuseppe Anepeta)やルイジ・ヴィンチ(Luigi Vinci)の楽団伴奏でラジオでかかるナポリの曲を歌うことが出来るようにもなりました。

 1954年第2回ナポリ音楽祭でアキレ・トリアーニ(私のブログ「サンレモの歌手たち 2 アキレ・トリアーニ、ドゥオ・ファザーノ」 http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/7713081.html ご参照)をパートナーに"愛の夢(SUONNO D'AMMORE)"を歌い優勝、同じ組合せで"昨暁(AIERESSERA)"が入賞しています。翌55年第3回ナポリ音楽祭でジーノ・ラティルラ(私のブログ「サンレモの歌手たち 3 オスカー・カルボーニ、ジーノ・ラティルラ」 http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/7732932.html ご参照)をパートナーに"いさり火の舟('E LLAMPARE)"で第3位、同じ組合せで"嘆きのバラ('E RROSE CHAGNERO)"が入賞しました。

 1970年以降は元々のオペラのテノール歌手に完全復帰しイタリアのミラノ・スカラ座、ニューヨークのカーネギーホールなどに出演していました。

 彼のサンレモ音楽祭出場は1956年第6回だけでした。

1957年までチェトラに在籍、59年合併したフォニット・レーベルに変わり、その後62年から63年チネヴォックス(CINEVOX)に移籍しますが、64年に再びチェトラに戻りました。

 

トゥリオ・パーネの国内盤は
MH- 210 (1965年9月 SEVEN SEAS - キング) 一緒にカンツォ-ネを歌おう第7集 ( LE PIU' BELLE CANZONI Vol.7)

12. 急流 (IL TORRENTE)

MH- 210MH- 210 SLX3-1001(M)SLX3-1001(M)a 

 

SLX3-1001(M) (1966年10月10日 SEVEN SEAS - キング) 豪華版サン・レモのすべて(TUTTE LE CANZONI DI SAN REMO)  3LPBOX

1-9. 急流 (IL TORRENTE)

SR- 615~6 (1971年8月10日 SEVEN SEAS - キング) ナポリ音楽祭のすべて第1集 ( FESTIVAL DELLA CANZONE NAPOLETANA(I))

1-7. 二つ星は落ちて (DDOJE STELLE SO' CADUTE)
2-3. マレキアーレの夢 (SUONNO A MARECHIARE)

SR- 615~6SR- 615~6a SR- 617~8SR- 617~8a

 

SR- 617~8 (1971年9月10日 SEVEN SEAS - キング) ナポリ音楽祭のすべて第2集 FESTIVAL DELLA CANZONE NAPOLETANA(II)

1-4. ソレントのセレナード (SERENATA A SURRIENTO)

GXF-  81~90 (1979年2月5日 SEVEN SEAS - キング) サン・レモ音楽祭大全集 (FESTIVAL DI SAN REMO)

1-12. 急流 (IL TORRENTE)

 

GXF-  81~90GXF-  81~90a NFA-91801~10NFA-91801~10

 

NFA-91801~10 (1991年JAZZY -ジャジ-・プランニング) エンサクロペディア・オブ・カンツォ-ネ (ENCYCLOPEDIA OF CANZONE) CD 非ライセンス商品

1-8. 急流 (IL TORRENTE)

 

クラウディオ・ビルラ(Claudio Villa)

本名クラウディオ・ピカ(Claudio Pica)1926 年1月1日ローマ生、1987年2月7日パドヴァ没。イタリアの映画俳優、歌手。


                 Claudio Villa (VR) 

 ローマの古い下町トラステヴェレ地区のルンガラ通りで父ピエトロ・ピカ(PIETRO PICA)とウルピア・ウルバーニ(ULPIA URBANI)の子として生まれました。10代でローマのレストラン劇場でエンターテイメントの世界へ第一歩を踏入れながら、カヴール通りにあるプリンチペッサ・マファルダ学校で歌の勉強を始めました。

 1944年に舞台監督アンブラ・ヨヴィネッリ(AMBRA JOVINELLI)の「カルデッリーノ」の牧童トマッソ役でデビューしました。その時クラウディオ・ピカはクラウディオ・ビルラに名前を変えることを勧められました。

 彼は最初に参加したコンテストでカルロ・ブーティの大ヒット曲"Chitarratella"を歌って優勝しました。 その後のビルラのレパートリーにはカルロ・ブーティのヒット曲が多く含まれています。

1946年、彼は最初に、ラジオRAIローマでいくつかのローカル放送に出演しました。そして1947年パーラフォン(PARLOPHON)で"Serenatella dolce e amara" と"Canzoncella"の2曲でレコード・デビューしました。

1949年デビューしたパーラフォンから、48年に設立されたばかりでナポリの本社があるヴィス・ラディオ(VIS RADIO)に移籍しました。彼はナポリの多くの有名な曲をレパートリーにすることになります。

1952 年に映画女優ミランダ・ボナンセア(Miranda Bonansea)と結婚し1年後息子マウロをもうけましたが10年後結婚は失敗します。

 

国内盤は残念ながらヴィス・ラディオの曲はありませんが、デビューしたパーラフォンの曲が日本で発売されていました。

 

HW-1035 (19591ANGEL - 東京芝浦電気工業) イタリアの空の下で (BENEATH ITALIAN SKIES) 25cmLP

4. 古きローマ (VECCHIA ROMA) 原盤 PARLOPHON

 

          HW-1035HW-1035

 

1956年のサンレモ音楽祭出場を機にヴィス・ラディオから、サンレモ音楽祭の主、メジャー・レーベルのチェトラに移籍します。その後の話は回を追って進めていきましょう。




サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO)  9

 

第5回 1955年1月27日(木)~29日(土) サンレモ市カジノ付属劇場

  Antonio Basurto.gif       Nuccia Bongiovanni
アントニオ・バズルトVIS RADIO*    ヌッチア・ボンジョヴァンニ CETRA

 

<参加曲> 

◆そり引きの歌 Cantilena del trainante (A.Faccenna - M.De Angelis) 出版社 R.P.D. ユ-ラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (CGD - CGD) PV-2067 [SP] : アントニオ・バズルト (vm) Antonio Basurto (VIS RADIO - VIS RADIO CETRA - CETRA)* 不明 [SP]

 

◆あなたは月 Che fai tu luna in ciel (N.Rastelli - Brinniti) 出版社 CHANT DU MONDE ユ-ラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (CGD - CGD) PV-2066 [SP] : ブル-ノ・バレシ (vm) Bruno Pallesi (CETRA - CETRA) DC-6268 [SP]

 

◆ ピッチーノ・ピッチーノ Era un omino (piccino piccino) (A.Paolillo - Nisa - M.Schisa)出版社 DEAR ネッラ・コロンボ (vf) [PV-2027] と ブル-ノ・ロセッタ-ニ(vm) [A-10509]、トリオ・アウロラ (trio) Nella Colombo & Bruno Rosettani & Trio Aurora (CETRA - CETRA CGD - CGD;DURIUM - DURIUM;FONIT - FONIT) 不明 [SP] :クララ・ヤイオ-ネ (vf) と ラジオ・ボ-イズ (coro) Clara Jaione & Radio Boys (CETRA - CETRA) DC-6264 [SP]

 

◆君を忘れて Non penserò che a te (Minasi - A.Taddei - G.Poggiali) 出版社 SONORFILM ジャンニ・ラヴェ-ラ (vm) Gianni Ravera (V.d.P. - V.C.M.) 不明 [SP] : トゥリオ・パ-ネ (vm) Tullio Pane (CETRA - CETRA) DC-6268 [SP]

 

◆最初の村Il primo viaggio (G.C.Testoni - M.Panzeri - M.Sargon) 出版社 SONG ネッラ・コロンボ (vf) [PV-2027]と ブル-ノ・ロセッタ-ニ(vm)、トリオ・アウロラ (trio) Nella Colombo & Bruno Rosettani & Trio Aurora (CETRA - CETRA CGD - CGD;DURIUM - DURIUM) A-10503 (DURIUM) [SP] : ヌッチア・ボンジョヴァンニ (vf) と ブル-ノ・パルレ-ジ (vm) Nuccia Bongiovanni & Bruno Pallesi (CETRA - CETRA) DC-6267 [SP]

            A-10503A-10503
    Bruno Rosettani con Duo Blengio

◆小路 Sentiero (B.Cherubini - C.Concina)出版社 LEONARDI ユ-ラ・デ・パルマ (vf) Jula De Palma (CGD - CGD) PV-2067 [SP] : ブル-ノ・バレシ (vm) Bruno Pallesi (CETRA - CETRA) 不明 [SP]

 

◆とっても内気 I tre timidi (E.Valladi)出版社 AMBROSIANA ナタリ-ノ・オット (vm) Natalino Otto (FONIT - FONIT) 14822 [SP] : ヌッチア・ボンジョヴァンニ (vf)  と ラジオ・ボ-イズ (coro) Nuccia Bongiovanni & Radio Boys (CETRA - CETRA)不明 [SP]

 

◆砂糖と胡椒 Zucchero e pepe (Biri - L.Capece - V.Mascheroni) 出版社 MASCHERONI ブル-ノ・ロセッタ-ニ (vm) と トリオ・アウロラ (trio) Bruno Rosettani & Trio Aurora (DURIUM - DURIUM;FONIT - FONIT) T-10509 (DURIUM); 14826(FONIT con Giacomo Rondinella) [SP] : クララ・ヤイオ-ネ (vf) と ラジオ・ボ-イズ (coro) Clara Jaione & Radio Boys (CETRA - CETRA) DC-6265 [SP]

 

                DC-5473DC-5473a

 

*アントニオ・バズルトのレコード会社は未確認状態です、CETRA説もあります。

 

  Nella Colombo              BRUNO PALLESI.
ネッラ・コロンボ CGD CETRA (CGD説もあり)    ブルーノ・パレージCETRA

 

         Clara Jaione    radio boys    Trio Aurora 02
  クララ・ヤイオーネCETRA  ラジオ・ボーイズ CETRA*     トリオ・アウロラ FONIT※
 (*)写真は
http://www.moreschiphoto.it/htm/festival.htm STUDIO FOTOGRAFO MORESCHI SANREMより
  ※トリオ・アウロラの画像が間違えていました。正しい画像に差し替えました。

 

第5回は初めてTV中継をし、最終日の模様はユーロヴィジョンでヨーロッパ各地に中継もされました。他に新しい試みとして、出場歌手以外にゲスト歌手も招待されました。古い歌手で俳優のオドアルド・スパーダーロ、昔の歌を三曲朗読し優勝発表のプレゼンターを務めました。

 

オドアルド・スパダーロ(Odoardo Spadaro

               Odoardo Spadaro 02

本名オドアルド・エウジェニオ・ジャーノ・スパダーロ(Odoardo Eugenio Giano Spadaro)1893年1月16日~1965年6月26日フィレンツェにて生・没。30年代、40年代を代表するカンタウトゥーリで俳優。フィレンツェやトスカーナ地方の庶民をうたった曲が中心ですが、ヒット曲は自作以外が多い。ナルチソ・パリージの先輩的な存在。

 

国内盤は1枚(1曲)のみです。それもGXF- 31~5"カンツォ-ネの歴史"の非売品特典盤です。

            Q-41Q-41

Q-41 (1976年6月21日 SEVEN SEAS - キング) カンツォ-ネの歴史 非売品 特典盤 (LA STORIA DI CANZONE ITALIANA)

2.スッラ・カロッツェラ (SULLA CARROZZELLA)

 

 

 

TWI・CD・AS-0517 (2005年 VIA ASIAGO 10 - TWILIGHT MUSIC, Italy) 5゚ FESTIVAL DELLA CANZONE ITALIANA SANREMO 1955 (第5回サンレモ音楽祭1955)

 

                 TWI・CD・AS-0517

1. RADIOTELEVISIONE ITALIANA, PRESENTA...  (第5回サンレモ音楽祭オ-プニング) 司会アルマンド・ピッツォ (Armando Pizzo)
2. CHE FAI TU LUNA IN CIEL (あなたは月) ユ-ラ・デ・パルマ (vf)
3. CI CIU CI (CANTAVA UN USIGNOL) (ナイチンゲ-ルはチ・チュ・チと歌う) ナタリ-ノ・オット (vm) と トリオ・アウロラ (trio)
4. CANTILENA DEL TRAINANTE (そり引きの歌) アントニオ・バズルト (vm)
5. ERA UN OMINO (PICCINO PICCINO) (ピッチ-ノ・ピッチ-ノ) クララ・ヤイオ-ネ (vf) と ラジオ・ボ-イズ (coro)
6. INCANTATELLA (恍惚を歌う) ナルチソ・パリ-ジ (vm)
7. IL PRIMO VIAGGIO (最初の村) ブル-ノ・パルレ-ジ (vm) と ヌッチア・ボンジョヴァンニ (vf)
8. NON PENSERO' CHE A TE (君を忘れて) ジャンニ・ラヴェ-ラ (vm)
9. UNA FOTOGRAFIA NELLA CORNICE (額ぶちの写真) ナタリ-ノ・オット (vm)
10. L'OMBRA (影) マリ-サ・コロンベ-ル (vf)
11. IL"REUCCIO"E' MALATO (ビルラは病気) 司会アルマンド・ピッツォ (Armando Pizzo)
12. IL TORRENTE (急流) クラウディオ・ビルラ (vm)
13. SENTIERO (小路) ユ-ラ・デ・パルマ (vf)
14. ZUCCHERO E PEPE (砂糖と胡椒) ブル-ノ・ロセッタ-ニ (vm) と トリオ・アウロラ (trio)
15. CANTO NELLA VALLE (谷間の歌) ナタリ-ノ・オット (vm)と トリオ・アウロラ (trio)
16. ANNUNCIA LA CANZONE VINCITRICE (優勝曲発表) ゲスト:オドアルド・スパダロ (vm)
17. BUONGIORNO TRISTEZZA (悲しみよ今日は) クラウディオ・ビルラ (vm)
18. BUONGIORNO TRISTEZZA (悲しみよ今日は) トゥリオ・パ-ネ (vm)

 最終日の各曲1組だけを収録しています。クラウディオ・ビルラは当日病気のために欠場し大会初めての録音した歌を会場に流しました。




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