カンツォーネ

カンツォーネ、イタリアン・ポップスの、“出来れば”知られざる話を致しましょう。

 
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サンレモの歌手たち 249 バレリア・モンガルディーニ、ピオ

バレリア・モンガルディーニ (vf) Valeria Mongardini

本名ロレダーナ・モンガルディーニ(Loredana Mongardini1951 5 21 日ローマ生、歌手、女優。

 

所属レコード会社:TalentRCA ItalianaREX 70

サンレモ音楽祭出場1回:1970年参加

 

Valeria Mongardini b

 

 ローマのトラステヴェーレ地区で生まれ、ちょうど15年才の時から振付師で司会者のドン・ルリオ(Don Lurio)の下でダンサーを始め、1969年ドン・ルリオの親会社RCAイタリアーナのタレント発掘レーベル、RCAタレントと契約し、アーチーズ(THE ARCHIES)の“シュガー・シュガー(Sugar, Sugar)”のイタリア語カヴァー曲でレコードデビューをしました。

 

TL-29 (196912RCA Talent RCA Italiana) Asciuga asciuga (Sugar, Sugar)/Se sapessi mio caro

TL-29TL-29   TL-31TL- 31 

TL-31 (19703RCA Talent RCA Italiana) Ahi ahi ragazzo (アイ・アイ・ラガッツォ)/ Sei come il vento

 

 2枚目のシングル盤がサンレモ音楽祭の出場曲“アイ・アイ・ラガッツォ”、リタ・パヴォーネのパートナーとして歌いましたが、入賞できませんでした。

 

 6月にカンタジーロのジローネB(新人部門)にゲス・フー(The Guess Who)の“アメリカン・ウーマン”のカヴァーを歌いましたが、本選には残れませんでした。イタリア語の歌詞は若き日のクラウディオ・バリオーニ(Claudio Baglioni)で、この曲はサブ・レーベルのタレントでなく、親レーベルのRCAイタリアーナから発売されました。

 

PM-3532 (19706RCA Italiana – RCA Italiana) Addio città vecchia (アメリカン・ウーマン American Woman dei)/Faccia d'angelo

             PM-3532PM-3532

 

 その後海外ツアーにも参加し、特に南米で人気があったようで、アルゼンチンやペルーで、カンタジーロで歌った“アメリカン・ウーマン”のスペイン語ヴァージョン(但しB面)も出していたようです。

 

31A-1770 (1970RCA Victor – RCA Argentina) Si Supieras, Amor Mio/ Mujer Americana (Adios Ciudad Vieja) (American Woman)

85-1297 (1970 RCA Victor RCA Peru) Si Supieras, Amor Mio/ Mujer Americana (Adios Ciudad Vieja) (American Woman)

 

 彼女の歌手活動は70年で終わったと思われ、女優になるまでの1年間が空白期間でした。今回調べていく内にジュークボックス盤ながら未知の盤の存在が確認でき、71年まで歌手をしていたことが判明しまた。

[参考サイト]

FunkABolik http://www.funkabolik.com/vinyl.asp?codice=4637

Top-5: Lino Agrò (Palermo) http://krossfingers.com/topfive-linoagro/

 

RNP-012 (1971REX 70 – Ricordi) Son Quella Che Sono (Valeria Mongardini)/ Manca L'Uomo (Tony Caprio)

RNP-012RNP-012大 

 

 レコード会社は名前の通り70年にトリノに出来た小会社レックス70というレーベルを使い、リコルディに販売を委託していました。B面のトニー・カプリオの“Manca L'Uomo”は正規市販盤(RNP-008)が発売されており、 詳細不明なレコード番号の中でRNP-009がバレリア・モンガルディーニの正規市販盤ではなかったかと推測しています。

 

 72年頃には歌手から本名ロレダーナ・モンガルディーニで女優に転向したようで、72年に2本の映画、マリオ・セジュ (Mario Sequi)監督の「Fratello homo sorella bona,」とエンリコ・ボンバ(Enrico Bomba)監督「Le mille e una notte... e un'altra ancora」に出演。

 映画女優を続けていたようです。翌73年「Ultimo tango a Zagarol」 など4本の映画出演が記録されていますが、その後はこれといった作品記録が残っていません。

 

 

 

バレリア・モンガルディーニの国内盤

SHP-6122 (19705 5 RCA - 日本ビクター) 30cm LP サンレモ1970 (SAN REMO 1970)

11. アイ・アイ・ラガッツォ AHI, AHI RAGAZZO

            SHP-6122SHP-6122a   

 

 

 

ピオ (Pio)

本名ピオ・トレッビ (Pio Trebbi) 1949 12 20 日フィレンツェの東50km、サン・マリノの近くの小さな山村マイオーロ(Maiolo)生、歌手。後年、本名のピオ・トレッビを使っています。

所属レコード会社Clan Celentano, Fonit-Cetra, Mia Records, DV More Records, Casadei Sonora

サンレモ音楽祭:2回出場、1970年参加、71年参加

 

Pio Trebbi

 

 1951年一家は近くの小都市サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャに引越しました。

 音楽に情熱をもやすカプッチーニの修道院の神学生で、精神面でアドリアーノ・チェレンターノの影響を受けて中途退学し、20才の時にミラノに移りチェレンターノ一家に属するようになりました。

 

 アドリアーノ・チェレンターノのプロデュースで、サンレモ音楽祭出場曲“ローマの雪”をローマを代表するベテラン歌手レナート・ラシェルのパートナーとして歌いましたが、入賞できませんでした。

 

BF-69039 (19702Clan Celentano – Messaggerie Musicali) Nevicava a Roma (ローマの雪)/Brucerei

BF-69039BF-69039   BF-69046BF-69046 

BF-69046 (19704Clan Celentano Messaggerie Musicali) Il pianista di quella sera /Grande come il mare

 

 続いて夏のディスク・フェスティヴァルに“Il pianista di quella sera”を歌いましたが参加曲で終わりました。

 

 翌71年親分アドリアーノ・チェレンターノが再びサンレモ音楽祭に出場し、子分のピオも2年連続出場することになりました。今度は同じクラン・チェレンターノのマウ・クリスティアーニ(Mau Cristiani)をパートナーに“白と黒の瞳(Occhi bianchi e neri)”を歌いましたが、また参加曲止まりでした。

 

BF-70001 (19712Clan Celentano Messaggerie Musicali) Occhi bianchi e neri (白と黒の瞳)/Tu sei

BF-70001 BF-70001  SP-1537SP-1537 

SP-1537 (1973Cetra - Fonit Cetra) Dietro i suoi occhi/You got wise

 

 2年ほど動向がつかめなくなり、73年チェトラからチェレンターノ・スタイルの曲“Dietro i suoi occhi”を出しています。

 

 再び消息不明状態になり81年、70年代に出来たレコード会社ミアからラガッツィ・デル・クランと共に“Volubile”をだしています。

M-1650 (1981Mia - Mia Records) Volubile/Due ali blu (Pio Trebbi e "I Ragazzi del Clan")

              M-1650M-1650 

 

この辺りの事から推測すると、チェレンターノ親分と決定的な喧嘩別れをしたのではなく、チェレンターノ一家を陰で支える役目をしていたのではないでしょうか。

 

 80年代、90年代に新録音をし出していたようですが、現物の確認ができていません。

 

 98年往年の歌手の歌を新録音して売っているDVモアから2枚のCDは出ました。新録音と言われているのは、これらのCDを指しているかもしれません。多くの曲はチェレンターノのカヴァーですが、ピオ自身の曲も含まれています。

 

CDSC-0236 (1998 DV More - DV More Records) Pio... In concerto

.STORIA D'AMORE (恋物語)

.PREGHERO' (俺の祈り STAND BY MEスタンド・バイ・ミー)

.AZZURRO (紺碧)

.GRAZIE, PREGO, SCUSI (グラッツィエ・プレーゴ・スクージ)

.DOLCE ROMPI

.E' INUTILE DAVVERO

.WHAT A WONDERFUL WORLD (このすばらしき世界)

.SI E' SPENTO IL SOLE (消えた太陽)

.UNA CAREZZA IN UN PUGNO (涙の愛撫)

10.NEVICAVA A ROMA (ローマの雪)

11.ARE YOU LONESOME TONIGHT? (今夜はひとりかい)

CDSC-0236CDSC-0236  CDDV-6198CDDV-6198 

CDDV-6198 (1998DV More - DV More Records) Pio canta i successi del Celebre

.IL RAGAZZO DELLA VIA GLUCK (グルック通りの若者)

.UN ALBERO DI 30 PIANI

.PREGHERO' (俺の祈り STAND BY MEスタンド・バイ・ミー)

.SEI RIMASTA SOLA (孤独の涙)

.AZZURRO (紺碧)

.GRAZIE, PREGO, SCUSI (グラッツィエ・プレーゴ・スクージ)

.NATA PER ME (君はぼくのもの)

.24 MILA BACI (2万4千のキッス)

.VIOLA (愛に咲くすみれ)

10.RAGAZZINA

11.IL SOLE DEI PAZZI

12.FRUTTO ACERBO

13.NEVICAVA A ROMA (ローマの雪)

14.IL FRANCOBOLLO TANGO

15.CANZONE D'AMORE

 

 99年TV番組の企画で昔のヒット曲を友人ジーノ・サンテルコーレと歌いCDを出します。

 

CDDV-6415 (1999 DV More Records) L'ultimo del Clan (con la partecipazione di Gino Santercole)

.L'ULTIMO DEL CLAN

.DOLCE TANGO

.RITORNERO'

.CAVOMBA

.NEVICAVA A ROMA (ローマの雪)

.DIETRO I SUOI OCCHI

.GIVE ME THE RIGHT

.L'AMORE NON E' BLU

.RELEASE ME (リリース・ミー)

10.DUE ALI BLU

11.IL FRANCOBOLLO TANGO

12.LA CAMERA 21

13.RAGAZZINA

14.CANZONE D'AMORE

15.FRUTTO ACERBO

16.STELLA D'ARGENTO

CDDV-6415CDDV-6415  CSCD-23CSCD-23 

CSCD-23 (2003Casadei Sonora) Sogno Santarcangelo

.Sogno Santarcangelo

.Dolce tango

.L'ultimo del clan

.Due ali blu

.Una canzone

.Give Me the Right

.Il ragazzo della via Gluck (グルック通りの若者)

.Ragazzina

.Il menestrello

10.Viola (愛に咲くすみれ)

11.Release Me (リリース・ミー)

12.My Way (マイ・ウェイ COMME D'HABITUDE)

13.Nevicava a Roma (ローマの雪) 

14.Occhi bianchi e neri (白と黒の瞳)

 

 アドリアーノ・チェレンターノの息子ジャコモ・チェレンターノと一緒にコンサート活動を続け、2003年にアルバム“Sogno Santarcangelo”を出しました。

 同年両親の故郷モンテフェルトゥロのカステルデルチから長年の功績をたたえられ名誉市民権を贈呈されました。

 

 

 

ピオの国内盤

GW- 11920 (197151SEVEN SEAS -キング) 30cm 2LP21回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1971)

1-. 白と黒の瞳 (OCCHI BIANCHI E NERI)

            GW- 11920GW- 119~20a


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サンレモの歌手たち 248 パティー・プラヴォー 1

パティー・プラヴォー (vf) Patty Pravo

本名ニコレッタ・ストゥランベッリ(Nicoletta Strambelli1948 4 9 日 ヴェネチア生、歌手。

Patty Pravo (1970)

所属レコード会社:ARCRca ItalianaPhilipsDischi RicordiCBOCGDVirgin RecordsCarrere RecordsFonit-CetraFive RecordZard RecordSony Music Kyrone Gp-MusicEdel MusicCarosello

アルバム:28枚(スタジオ録音盤25、ライヴ盤3

サンレモ音楽祭出場8回:1970年5位、1984年10位、1987年20位、1995年20位、1997年8位、2002年16位、2008年入賞、2011年参加

公式ウェブサイトhttp://www.pattypravoweb.com

 パティー・プラヴォーはヴェネチアで生まれ、父は造船業の所有者するブルジョアの起業家でした。ヴェネチアで両親と少女時代を過ごしました。アンジェロ・ロンカッリ総大司教(後のローマ教皇ヨハネ23世)やアメリカの詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound)とも知り合いでした。

 

 彼女は小さな教習所でしたがダンスとピアノを4年間学びました。1964年イタロ・ヤンネ(Italo Janne)とデュオ・マゼンタ(Duo Magentaというデュエット名で音楽活動を始めました。ロビンソン・レコードのトニー・タシナート(Tony Tasinato)に認められ、メストレのコルソ劇場に初出演しました。

 

 その後ロンドンに遊学しましたが2日間でイタリアに戻り、フランスの作曲家ギイ・マジャンタ(Guy Magenta)に認められローマに移りました。

 

 ある夜、ローマのパイパークラブの設立者の一人、弁護士でRCAイタリアーナのスカウトもしているアルベリゴ・コロセッタはこのクラブに踊りに来ている少女を見つけます。その少女をカテーリナ・カセルリの後釜、二代目パイパー・ガールにして、芸名をパティー・プラヴォーとしました。

 

 1966年RCAイタリアーナの新人開発レーベル、ARCのレコード・プロデューサーもしているアルベリゴ・コロセッタは、ここからパティー・プラヴォーをデビューさせることにしました。前年ビルボード・ホット100の15位になったソニー&シェールの“バット・ユア・マイン(BUT YOU'RE MINE)”をイタリア語で歌わせた“悲しい少年”をデビュー曲に選びました。この曲は翌67年年間ヒット・ランク61位のヒット、カンツォニッシマにも出場し、パティーのデビューは大成功でした。

 B面はパイパー・クラブにあやかってかクリスピアン・セント・ピーターズ (Crispian St. Peters)の “パイド・パイパー”でした。

 

AN-4097 (196610 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Ragazzo triste (悲しい少年) /The Pied Piper (パイド・パイパーTHE PIED PIPER)

AN-4097AN-4097  AN-4112AN-4112 

AN-4112 (1967 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Sto con te (雨に言っておくれTell it to the rain The Four Seasons)/Qui e là (あちらこちら HOLY COW - Lee Dorsey)

A面はフォー・シーズンズの“雨に言っておくれ”のカヴァー、このシングルのみの収録曲。B面はリー・ドーセイの“HOLY COW”で1967年のカンツォニッシマで歌われ、こちらの方が有名になりました。

 

 A面はアメリカの女性ソウル・シンガーP.P.アーノルド(或はパット・アーノルド)が元曲、年間ヒット・ランク95位に入りました。

AN- 4135 (1967 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Se perdo te (もし許すならThe Time Has Come)/Lettera a Gianni

AN-4135AN-4135  AN-4155AN-4155 

AN-4155 (1968 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) La bambola (ラ・バンボーラ)/Se c'è l'amore (もし愛があるならLet The Heartaches Begin)

 

 初期の彼女の最大のヒット曲、パティーの代名詞ともなった“ラ・バンボーラ”は68年年間ヒット・ランク2位のメガ・ヒットになり、日本デビュー盤ともなりました。B面はロング・ジョン・バルドリー(Long John Baldry)の“恋にお別れ”のカヴァーです。

 この大ヒットでアルバムも発売され、こちらも68年年間ベスト・アルバム4位、日本でもファースト・アルバムが発売されました。

 

ALP-11009 (1968 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) 30cmLP Patty Pravo

.La Bambola (ラ・バンボーラ)

.Yesterday (イエスタデイ - Beatles) 

.Five Foot Two Eyes Of Blue (5フィート2インチ、青い眼の娘FIVE FOTT TWO, EYES OF BLUE - California Ramblers, Dean Martin)

.Se Perdo Te (もし許すならTHE TIMES HAS COME - P. P. Arnold)

.Se Mi Vuoi Bene (本当に私を望ならI JUST DON'T KNOW WHAT TO DO WITH MYSELF - Dusty Springfield)

.Qui E La (あちらこちらHOLY COW - Lee Dorsey)

.Se C'È L'Amore (もし愛があるならLET THE HEARTACHES BEGIN 恋にお別れ- Long John Baldry)

.Ci Amiamo Troppo (愛しすぎてRIVER DEEP, MOUNTAIN HIGH 恋を探し求めて- Ike & Tina Turner)

.Ragazzo Triste (悲しい少年BUT YOU'RE MINEバット・ユア・マインSonny & Cher)

10.Io Per Lui (彼のためにTO GIVE (IS THE REASON I LIVE) - Frankie Valli)

11.Old Man River (オール・マン・リバーOL' MAN RIVER - Norris Smith)

ALP-11009ALP-11009  AN-4165AN-4165 

AN-4165 (19683 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Gli occhi dell'amore/Sentimento (センチメント)

 彼女の勢いは止まらず、B面の“センチメント”が年間ヒット・ランク13位のメガ・ヒットになり次のシングル盤の“トリポリ'69”と共にカンツォニッシマで歌われました。

 “トリポリ'69”が69年年間ヒット・ランク49位、

 

AN-4175 (19699 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Tripoli 1969 (トリポリ'69)/Lasciatemi amare chi voglio 

AN-4175AN-4175  AN-4180AN-4180 

AN-4180 (1969 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) Il paradiso (二人のパラダイスIL PARADISO DELLA VITA - La Ragazza 77)/Scende la notte sale la luna

 

 ルチオ・バッティスティが作った“二人のパラダイス”は同43位、詳しくは「サンレモの歌手たち 218 ルチオ・バティスティ7」をご覧ください。

 

 初めてのコンセプト・アルバムを出します。A面は“コンチェルト・ペル・パティー”のみ、12分以上のきょくで、カンタウトゥーリのジャンニ・メッチアは作詞を担当し、再評価されます。

 

ALPS-11013 (19698 ARC Piper Club Series – RCA Italiana) 30cmLP Concerto per Patty

.Concerto Per Patty (コンチェルト・ペル・パティー)

.Il paradiso (二人のパラダイスIL PARADISO DELLA VITA - La Ragazza 77)

.Sola In Capo Al Mondo (エンド・オブ・ザ・ワールドEND OF THE WORLD - Aphrodite's Child)

.Un Giorno Come Un Altro (若葉のころFIRST OF MAY - Bee Gees)

.With A Little Help From My Friends (ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド- Beatles)

.Tripoli 1969 (トリポリ'69)

.Un'Ora Fa (過ぎ去ったひととき- Fausto Leali, Tony Del Monaco)

ALPS-11013ALPS-11013   AN-4188AN-4188 

AN-4188 (1969 ARC – RCA Italiana) LE ORE DEL PASSATO (in suite CONCERTO PER PATTY)/ L'ARIA DI UN PAESE (in suite CONCERTO PER PATTY)

 

 アルバム「コンチェルト・ペル・パティー」は年間ベスト・アルバム7位になり、ここから2曲シングル・カットされます。

 

69年最後のシングル盤は両面カンツォニッシマの出場曲です。A面はホセ・フェリシーアーノ(Josè Feliciano)のヒット曲“雨のささやき (RAIN)”でイタリア語タイトル“Nel giardino dell'amore”は年間ヒット・ランク69位になりました。

 

AN-4191 (196911 ARC– RCA Italiana) Nel giardino dell'amore (雨のささやきRAIN) /Ballerina ballerina

AN-4191AN-4191  AN-4197AN-4197 

AN-4197 (19703 ARC – RCA Italiana) La spada nel cuore (心の剣)/Roma è una prigione

 

66年10月のデビュー以来、立て続けにヒットを出してきたパティーもやっと70年サンレモ音楽祭に、リトル・トニーをパートナーとして“心の剣で初出場、5位入賞という好成績でしたが、セールス的には年間ヒット・ランク89位に止まり、今一つ満足をしかねる成績だったかもしれません。

 

 

 

 

パティー・プラヴォーの国内盤

SS-1824 (19688 5 RCA - 日本ビクター) ラ・バンボーラ (LA BAMBOLA)もし愛があるなら (SE C'E' L'AMORE)

SS-1824SS-1824   SHP-6065SHP-6065 

SHP-6065 (19699 5 RCA - 日本ビクター) 30cm LP ラ・バンボーラ/パティ・プラボー (PATTY PRAVO)

.ラ・バンボ-ラ (LA BAMBOLA)
.イエスタデイ (YESTERDAY)
.5フィート2インチ、青い眼の娘 (FIVE FOOT TWO, EYES OF BLUE)
.もし許すなら (SE PERDO TE)
.本当に私を望なら (SE MI VUOL BENE)
.あちらこちら (QUI E LA')
.もし愛があるなら (SE C'E' L'AMORE)
.愛しすぎて (CI AMIAMO TROPPO)
.悲しい少年 (RAGAZZO TRISTE)
10.彼のために (IO PER LUI)
11.オール・マン・リバー (OL'MAN RIVER)

 

SHP-6122 (19705 5 RCA - 日本ビクター) 30cm LP サンレモ1970 (SAN REMO 1970)

.心の剣 (LA SPADA NEL CUORE

             SHP-6122SHP-6122a   

 

 

 

パティー・プラヴォー2は1984年サンレモ音楽祭の後に続きます

サンレモの歌手たち 247 ミケーレ 1

ミケーレ (vm) Michele

本名ジャンフランコ・ミケーレ・マイサーノ(Gianfranco Michele Maisano 19446 29日ミラノ西の郊外にある小都市ヴィジェーヴァノ(Vigevano)生、歌手。

 

Michele

 

 彼は母親は連日のジェノヴァにされる爆撃を避けるため、数日母の祖父母の家に疎開している間に生まれました。ミケーレが間違いなく母から受継いだ芸術的なD...、有望な声は子供の頃からその片りんを見せ始めました。

 子供の頃ミケーレはジェノバの北、内陸部海抜800mにあるリグーリア州の山村ミンチェト(Minceto)で夏休みを過ごします。そこで沢山のジェノヴァの民俗音楽と歌を農民の家族から教わりました。

 1957年、まだ両親と暮らす少年でしたが偶然にもミケーレはヴィルゴ・ポテンス劇場の歌手としてデビューし、上手なロック・ン・ロールのアクロバット・ダンサーとなっていました。

 ロック・ン・ロールの様々なバンドを経験した後、ジェノヴァのサンピエルダレーナ地区にあるザンティ楽団に雇われました。日中はジェノヴァ海事学校の生徒をしながら歌う生活を送っています。そしてアザレアからシングル・デビューしました。

 

NR-067 (1958Azalea – Dischi Azallea) Sono dannato/Flirt

NR-067NR-067  SAS-1002SAS-1002 

SAS-1002 (1962Assolo - Karim) Ma se tu vorrai/Piango

 

 数年後62年、ミケーレはスカウトのレンゾ・レンツィのおかげでレベルベリ兄弟と顔見知りとなり、ファブリツィオ・デ・アンドレの父が設立に加わったカリム(Karim)のサブ・レーベル、アッソロから2枚目のシングルを出しました。

 

 同年RCAイタリアーナに変わってきたばかりのニンナ・リコルディに紹介され移籍が成立、翌63年エツィオ・ラダエリが始めて2年目のカンタジーロのジローネBに“恋の恨み”で出場することが出来ました。その後歌手となって大成したのは2位になったイザベラ・ヤンネッティ(Isabella Iannetti)くらいで、強敵がなく幸運でにも優勝してしまいます。この曲は63年年間ヒット・ランク4位のメガ・ヒットになり一躍アイドル・スターに祭り上げられます。

 

PM45-3215 (19636 RCA Italiana - RCA Italiana) Se mi vuoi lasciare (恋の恨み)/Cosa vuoi da me

PM45-3215PM45-3215  PML-10377PML-10377

PML-10377 (1963 RCA Italiana - RCA Italiana) 30cmLP Michele

.Se Mi Vuoi Lasciare (恋の恨み)

.No, Non E' Vero

.Piango

.Ma Se Tu Vorrai

.Sei Convinta

.Ma Neanche Per Idea

.Ridi (いとしのリディー)

.Un'Ora

.Se Proprio Vuoi Saperlo

10.Si, Lo So

11.Nessuno Potrà (二人の幸福)

12.Cosa Vuoi Da Me

 

 メジャー・デビュー1曲目でメガ・ヒットを出し、すぐさま異例のアルバムを作り、その中からシングル盤を出していきます。多忙な日々が続き、海事学校の卒業練習航海に参加できなくなりました。

 

 2枚目のシングルは“いとしのリディー”で、アメリカのロバート・ナイト(Robert Knight)の“FREE ME”のカヴァーでした。その頃、RCAイタリアーナの歌手だけが出演する日本での「イタリヤ・カンツォーネ・フェスティバル」のメンバーの選定があり、有望新人歌手としてミケーレも日本行が決まりました。彼の“いとしのリディー”は年間ヒット・ランク34位の大ヒット、日本デビュー曲となりました。

 

PM45-3227 (1964 RCA Italiana - RCA Italiana) Ridi (いとしのリディー)/Ma neanche per idea

PM45-3227PM45-3227  PM45-3278PM45-3278 

PM45-3278 (1964RCA Italiana - RCA Italiana) Ti ringrazio perché (きみに感謝を... )/Vado da lei (彼女の家へ)

 

 来日した時、イタリアでは誰からも声をかけられたのに、日本では誰も彼のことを見向きもしないのに戸惑ったそうです。64年最後のシングルは“きみに感謝を...”、カンタジーロのジローネA(スター部門)で2位となった曲です。年間ヒット・ランク14位のメガ・ヒット、日本でもシングル盤が発売されました。

 

 3年連続出場のカンタジーロ出場の曲“恋の日々の後に”で順位は少し落とし6位、年間ヒット・ランク87位の曲。イタリアでのエルヴィス・プレスリーの信奉者は多く、良く知られているのはリトル・トニーやボビー・ソロで、ミケーレもその一人です。念願のプレスリーの“今夜はひとりかい?”をB面でカヴァーしました。

 

PM45-3321 (1965 RCA Italiana - RCA Italiana) Dopo i giorni dell'amore (恋の日々の後に) /Ti senti sola stasera (今夜はひとりかい? ARE YOU LONESOME)

PM45-3321PM45-3321  PM45-3345PM45-3345 

PM45-3345 (1966 RCA Italiana - RCA Italiana) )/ È stato facile (簡単だ)/ Quando sei con me (センチメンタル・ミー SENTIMENTAL ME)

 

 66年最初のシングル盤はカンタジーロの曲“簡単だ”でジャンニ・モランディ、リトル・トニーに次いで第3位、年間ヒット・ランク56位になります。B面はプレスリーのカヴァーです。カンタジーロでは常連になりましたが、サンレモ音楽祭には縁がありません。65年はRCAイタリアーナが出場辞退、66年はエドアルド・ヴィアネッロのみの出場と言う出場機会がなく不運でした。

 

 66年2枚目はレイ・ピーターソン(Ray Peterson)の“ロ-ラに好きだと云ってくれ”のカヴァーです。67年年間ヒット・ランク54位のヒットになりましたが、この頃になるとヒットする曲が減っています。

 

PM45-3382 (1966 RCA Italiana - RCA Italiana) Dite a Laura che l'amo (ラに好きだと云ってくれTELL LAURA I LOVE HER)/Quando parlo di te

PM45-3382PM45-3382  JBPM45-3376JB・PM45-3376 

PM45-3376 (1966 RCA Italiana - RCA Italiana) OK/Sei mia

 

 この“OK”はジャケット画像のようにJB(ジューク・ボックス専用)盤しか見つからず、一般市販盤は売れなかったのでしょうか?

 

 RCAイタリアーナで2枚目のアルバムを出します。“きみに感謝を...”以降の曲を集めています。映画「もしもお許し願えれば・・・」の“Parliamo di donne”も収録されています。国内盤は演奏物しか出ていません。ところでこのジャケットをご覧になって見たことがあるはずです。マカロニ・ウェスタン「夕陽の用心棒(UNA PISTOLA PER RINGO)」の“流れ者のギター(ANGEL FACE)”シングル盤ジャケットに流用されました。

 

PML-10403 (1966 RCA Italiana - RCA Italiana) 30cmLP Se sei sola

.Ti senti sola stasera (今夜はひとりかい? ARE YOU LONESOME TONIGHT - Elvis Presley, Charles Hart)

.Scordati di me

.Quando sei con me (センチメンタル・ミー SENTIMENTAL ME - Ames Brothers, Elvis Presley)

.Parliamo di donne (もしもお許し願えれば女について話しましょう)

.Vado da lei (彼女の家へ)

.E' stato facile (簡単だ)

.Dopo I giorni dell'amore (恋の日々の後に)

.Sei mia

.Oggi è triste il cielo

10.Ti ringrazio perchè (きみに感謝を... )

11.OK

12.Senza me

PML-10403PML-10403  PM45-3421PM45-3421 
PM45-3421 (1967 RCA Italiana - RCA Italiana) Viva le donne come te/La voglia di vivere

 

 67年になると発売は“Viva le donne come te”1枚のみとなります。

 

 68年トム・ジョーンズの“家路”をカヴァーしました。

 

PM45-3449 (1968 RCA Italiana - RCA Italiana) Che male c'è/Io tornerò (家路 I'M COMING HOME)

PM45-3449PM45-3449  PM-3474PM-3474 

PM-3474 (1968 RCA Italiana - RCA Italiana) Giovanna non piangere/L'aeroplano (? - Chanters)

 

B面“L'aeroplano”はチャンターズ (Chanters)のカヴァー曲だとしか判っていません。

 

RCAイタリアーナは69年に大改革をします。ベテラン歌手に企業内子会社を興させたり、サブ・レーベルに転籍させます。ミケーレはRCAイタリアーナを離れリフィ(RiFi)への移籍を選びます。

 

※現在“いとしのリディー”の国内シングル盤がヤフオクに出品中

http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w35299895

 

 

 

ミケーレ (vm)の国内盤

SHP-5337 (19648VICTOR – 日本ビクター) 30cmLP太陽!    (FESTIVAL IN CASA)

. リディ (RIDE)

SHP-5337SHP-5337 SS-1470SS-1470

SS-1470 (19649VICTOR 日本ビクター) いとしのリディー (RIDE)恋の恨み (SE MI VUOI LASCIARE)

 

SHP-5376 (196410 VICTOR – 日本ビクター) 30cmLP イタリアン・カンツォーネ・フェスティバル (ITALIAN CANZONE FESTIVAL)

.いとしのリディー (RIDE)
SHP-5376SHP-5376 
SS-1494SS-1494

SS-1494 (196412 VICTOR – 日本ビクター) きみに感謝を...  (TI RINGRAZIO PERCHE')/彼女の家へ (VADO DA LEI)

SS-1504 (19652 VICTOR – 日本ビクター) もしもお許し願えれば女について話しましょう (SE PERMETTETE PARLIAMO DI DONNE)/二人の幸福 (NESSUNO POTRA') カテリーネ・バルボーニ楽団 (orch)/ミケーレ (vm)

               SS-1504SS-1504  

 

(ご参考)

SS-1685 (19668 VICTOR – 日本ビクター) 流れ者のギター(UNA POSTOLA PER RINGO/ ANGEL FACE) エンニオ・モリコ-ネ楽団/マウリツィオ・グラフ (MAURIZIO GRAF)

               SS-1685SS-1685

 

 

ミケーレ2は1972年サンレモ音楽祭の後に続きます。

 


サンレモの歌手たち 246 ルチア・リッツィ、ディーノ・ドルジアーニ、フランチェスコ・バンティ、エミリアーナ

ルチア・リッツィ (vf) Lucia Rizzi 

1954 2 2 日トリノ生、歌手。同名のメゾソプラノの声楽家、また児童心理学者とは別人。

Lucia Rizzi

 

 両親ともプーリア出身で、父は熟達した画家の娘として生まれました。1969年のカストロカーロ新人コンテストでディーノ・ドルジアーニ(Dino Drusiani)と二人で最年少優勝をしました。

70年サンレモ音楽祭で、ミケーレ(Michele)のパートナーとして“別離(L'addio)”は入賞しませんでした。

 

SP-1424 (1970Cetra Fonit Cetra) L'addio (別離)/Amore vero (純な恋)

                            SP-1424SP-1424 

 

 デビュー盤はサンレモ参加曲“別離(L'addio)”で、B面の“純な恋(Amore vero)”はピッポ・バウドのTVバラエティー番組「セッテヴォーチ(Settevoci)」でも歌われました。

 4月に行われた大阪万国博のサン・レモ音楽祭Expo’70に最年少歌手として参加、来日し本国イタリアではレコード化されていない“なんて愛してる”、“雨のささやき”とサンレモ音楽祭参加曲“別離”の3曲のライヴ録音として残しました。

 その後のことは明確でありませんが、当時はまだ学生で歌手の経歴を続けませんでした。

 

 

ルチア・リッツィの国内盤

HIT-1736 (197041 SEVEN SEAS – キング) 別離 (L'ADDIO)/純な恋 (AMORE VERO)
HIT-1736HIT-1736  
 PS- 186PS- 186

PS- 186 (197041 SEVEN SEAS – キング17cm CP 第20回サン・レモ音楽祭第2集 (FESTIVAL DI SAN REMO 1970 Vol.2)
.別離 (L'ADDIO)

 

GW-  734 (1971420 SEVEN SEAS – キング) 30cm 2LP第20回サンレモ音楽祭(FESTIVAL DI SAN REMO 1970)

2-.別離 (L'ADDIO)

GW-  734GW- 73~4a  DY-4505-3DY-4505-3

DY-4505-3 (19705 SEVEN SEAS キング) 30cmLP 20回サンレモ音楽祭万国博来日記念盤 (FESTIVAL DI SAN REMO 1970 DIGEST) 試聴盤非売品

12.別離 (L'ADDIO)

 

GW-  834 (1970710 SEVEN SEAS キング) 30cm2LPサンレモ・フェスティヴァルEXPO'70 (SAN REMO FESTIVAL EXPO'70)

2-.なんて愛してる <L> (QUANTO TI AMO <L> (QUI JE T'AIM [I]<L>))

2-.雨のささやき]<L> (NEL GIARDINO DELL'AMORE <L> (RAIN [I]<L>))

2-.別離 <L> (L'ADDIO <L>)

GW-  834GW- 83^4a  GW- 23940GW- 239~40a

GW- 23940  (19733 SEVEN SEAS – キング) 30cm2LP ラヴ・ミ・トゥナイト/くたばれサンレモ NON FINALISTE DI SAN REMO)

2-.別離 (L'ADDIO)

 

 

ディーノ・ドルジアーニ (vm) Dino Drusiani

1952 4 16 日(26日説もあり)モデナの郊外カンポ・ガッリアーノ生、歌手。

 

DINO DRUSIANI

 

 自転車修理屋の息子で、地元のエミリア = ロマーニャ州で非常に若いうちからダンス・クラブで本格的歌を歌って勉強をしていました。1969年のカストロカーロ新人コンテストでルチア・リッツィ (Lucia Rizzi)と二人で優勝をしました。

 翌70年サンレモ音楽祭で、同じ所属レーベル、フィリップスのフランチェスコ・バンティ (Francesco Banti)のパートナーとして“今ぼくは生きる(Ora vivo)”を歌いましたが入賞しませんでした。

 

6025-004 (19702Philips - Phonogram) Ora vivo (今ぼくは生きる)/Una città tra noi

                      6025-0046025-004 

 

 サンレモ音楽祭後、地元で、歌以外にもパーティーを主催や司会の仕事をしています。またカルピ方言劇団「イル・グラニゼル(Il Granisèl)」の俳優とリショの歌手として、楽団カルピの友(Orchetra Gli amici di Carpi)の一員となりました。

 

 75年楽団カルピの友は地元の曲を出しました。

8831 (1975Premier - Italia Canta) La Nagazza in Bicicletta/E Dag Dal Gas

Premier-8831Premier-8831  Emilia-9252Emilia-9252

9252 (?年 Emilia - ) Forza Carpi (Inno A.C.Carpi)/Carlita (retro di Forza Carpi)

 

 何時頃出たのかわかりませんが、楽団カルピの友の最大のヒットと思われる曲です“Forza Carpi”は地元のサッカー・チーム、カルピF.C.1909の応援歌です。

 チーム名にも入っているように1909年に出来た歴史の長いチームなのですが、設立以来セリエBで、2015年4月初めてセリエAに昇格しました。これを機に応援歌もパオロ・ベッリ(Paolo Belli)の歌に変えられてしまいました

 

 
ディーノ・ドルジアーニの国内盤はありません


 

 

★フランチェスコ・バンティ (vm) Francesco Banti

1953 3 21 日ピサの南にリグリア湾沿いの港町リボルノ(Livorno)生、歌手。

 

Francesco Banti b 

 彼は教員養成学校(Istituto Magistrale)通いながら進む、サッカーのキャリアを積んでいたが歌に専念するためサッカーを断念しました。

 1968年彼はルガーノで開催された若者向けの音楽コンクール、ユーロ・ダヴォリ・トーナメント(Il Torneo EuroDavoli)に出場しましたが、成功せず、すぐにフィリップスとのレコード契約ができず、デビューが遅れました。

 

 多分“Piedi di piombo”がデビュー曲だと思われますが、全く資料が出てきません。

 

NH 59-813 (1968: Philips - Phonogram) Piedi di piombo/Dieci giorni di vacanza

 

363-760PF (1969: Philips - Phonogram) Ehi,Ehi Lo Sai (I'm Gonna Make You Mineキミがほしい)/ Giorni che corrono

 

 2枚目がアメリカのルー・クリスティーの“キミがほしい(I'm Gonna Make You Mine)”のイタリア語カヴァーを出しました。翌70年スペールグルッポ(Supergruppo)もカヴァーしますが、フランチェスコ・バンティの方がさきに発売していました。

 

 70年、カストロカーロ新人コンテストに優勝したディーノ・ドルジアーニをパートナーにサンレモ音楽祭で“今ぼくは生きる(Ora vivo)”を歌いますが、全く注目されませんでした。音楽祭での彼のエピソードは学生時代サッカーのストライカーを目指していたという事だけでした。

 

6025-003 (1970: Philips - Phonogram) Ora vivo (今ぼくは生きる)/Cappuccetto rosso

6025-0036025-003 

 

その後、彼は音楽活動から引退しました。

 

 

フランチェスコ・バンティの国内盤はありません

 

 

★エミリアーナ (vf) Emiliana

本名エミリア・ペリーナ(Emiliana Perina1954 5 22 日生、歌手、女優。後年、本名で活動を続けています。

所属レコード会社: KansasVariety (Ri Fi)

 

Emiliana

 

 ミラノで2つのレストラン経営する家庭の娘で、非常に若い頃から歌い始めました。のときに、日本ではエドガー・アラン・ポー(E.A.POE)、フラッシュメン(I FLASHMEN)、1968年、カプリコーン・カレッジ(CAPRICONE COLLEGE)、グレゴール(I GREGOR)などのイタリア・ロックのマイナー・バンドで紹介され、若き日のカマレオンティも在籍し、当時はクラン・チェレンターノが販売権を持っていたカンザスと契約しました。

 ちょうど14才で芸名エミーとしてローティーン・アイドルとしてデビューしました。

 

DM-1052 (1968Kansas – Clan Celentano) Cento nuvole/La felicità (inciso con lo pseudonimo Emy)

            DM- 1052DM- 1052

 

 68年ピッポ・バウドのTV番組「セッテヴォーチ(Settevoci)」で“Cento nuvole”をヒットさせた歌手として紹介され、翌69年“Arcobaleno di gioia”もヒットしました。

 

 リフィのサブレーベル、ヴァラエティーへ移籍、サンレモ音楽祭に唯一の出場します。イ・ジェンスのパートナーで“花の季節”を歌いましたが、入賞しませんでした。その年ヴェネズエラのカラカスでひかられた「オンダ・ヌオーヴァ音楽祭」に出場します。

 

FNPNP-10148 (1970: Variety Ri Fi) La stagione di un fiore (花の季節)/Passa il tempo passa

FNPNP-10148FNP・NP-10148  FNPNP-10174FNP・NP-10174

 

FNPNP-10174 (1971 Variety Ri Fi) Barbablu/Una vita

 

 71年“Barbablu”を出しました。翌72年イタリアのアメリカ移民を題材としたミュージカル・コメディー「Ciao Rudy(チャオ・ルディー)」に加わり、その後トニー・クッキアーラ(Tony Cucchiara)の音楽劇“Caino ed Abele(カインとアベル)”など文芸作品にマリーサ・サンニアらと共演しました。

 

3C164-178656 (1973Odeon EMI ITALIANA) 30cm2LP Caino e Abele

3C164-1786563C・164-17865〜6  3C054-171933C・054-17193 

3C054-17193 (1973Odeon EMI ITALIANA)) 30cmLP Selezione da Caino e Abele

 

 74年「カインとアベル」と同じくトニー・クッキアーラの音楽劇「Storie di periferia(郊外物語)」に出演しました。

 

69105(CBS) (1975115 CBS - CBS Sugar) Storie di periferia

69105(CBS)69105(CBS)    Emiliana PerinaEmiliana Perina 

 

76年有名なミラノ・ピッコロ劇場の研修所を卒業し、ミュージカル演劇女優エミリア・ペリーナとして新たな出発をしました。

 

 

 エミリアーナの国内盤はありません


サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO) 57 1970年-4

今回は優勝曲の紹介が一番最後になってしまいました。68年子分ドン・バッキーの“カンツォーネ”を横取りして第3位となり、裁判沙汰の大騒動を起こし、ホトボリが冷めるまで大人しくするかと思われていました。しかし2年後奥さんのクラウディア・モーリをパートナーに“働かない者は恋するな”と言う皮肉な内容を歌い、ついにサンレモ優勝歌手となります。

 奥さんをパートナーにして優勝歌手の名誉を贈ったともいえますが、本当は彼のパートナーは「身内」でしか勤まらないのが本当のところでしょう。また小さな会社にかかわらず、なんと4歌手の出場をオーガナイザーに認めさすとは、本当に恐ろしい人です。

 

       Mario Tessuto         FNP-10108
 マリオ・テッスート (CGD)               ロッサーノ (VARIETY)     

 

第20回 1970年2月26日()~2月28日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:Presエンリコ・マリア・サレルノ (Enrico Maria Salerno)、ヌッチョ・コスタ(Nuccio Costa)、イラ・フルステンベルグ (Ira Fustenberg)
楽団指揮: 28名の指揮者で演奏された。

オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督エツィオ・ラダエリ (Ezio Radaelli)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に13曲を歌い、各夜の中から7」曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。

 

出場歌手は52歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。

初出場24歌手(内外人1歌手)、出場レコード会社18社で初出場6社、外人歌手のみの出場会社は1社です。 ただし、その内RCAイタリアーナ・グループに属するレコード会社が4社含まれています。[]は外人歌手数

RCA ITALIANA [] CGD[]RICORDI[1]RI FI []FONIT CETRA[]ARISTON []Clan Celentano[]PHONOGRAM []  DURIUM []CAROSELLO []CAR-JUKE BOX []DET(CAM)[0];新PDU []; 新SIF1 [1] ;(以下RCA ITALIANA Groupe)新LITTLE [];新IT [];新APOLLO [];新NUMERO UNO []

 

 実現しなかったのですが、最も出場を期待されたサンレモ未出場の最後の大物歌手がいます。ジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)でした。第2位となった“愛の贈りもの”を歌う可能性が高かったのです。ミノ・レイターノ、ロベルティーノの名も挙がりますが最後にリッキとポーヴェリにすり替わりました。

  ドン・バッキーは“ノアの箱舟”を希望しましたが、イヴァ・ザニッキに負け、前年自殺未遂でロザンナ・フラテルロに変更となったアンナ・イデンティチが平然とサンレモにもどり、マスコミはロザンナがアンナのライバルとして煽り立てます。

 一番の話題は開催をカンツォニッシマから期間を開けるため開催を2月最終週に持ってきたのですが、その直前2月25日にミーナがジャーナリストのヴィルジオ・クロッコ(Virgilio Crocco)と結婚した事でした。

 

    Valeria Mongardini b               N-9723

バレリア・モンガルディーニ (TALENT)     セルジョ・レオナルディ (CGD)      

 

 

<参加曲>

ここにたたずんでIo mi fermo qui (L.Albertelli - E.Riccardi) 出版社 R.R.R. ドナテッロ (vm)  Donatello Ricordi – Ricordi SRL-10584 [45] イ・ディク・ディク Dik Dik Ricordi – RicordiSRL-10587 [45]

 

  SRL-10・584   SRL-10・587 DP-1747

 SRL-10584                   SRL-10587               DP-1747

 

 

ローマの雪Nevicava a Roma L.Beretta - M.Del Prete - P.Verdecchia - R.Negri) 出版社 KANSAS レナート・ラシェル (vm) Renato Rascel RCA ITALIANA - RCA ITALIANAPM-3508 [45] ピオ (vm) PioClan Celentano - CBS SugarBF-69039 [45]

 

PM-3508PM-3508   BF-69039BF-69039 

 

 

ア-モンド色の瞳 Occhi a mandorla (V.Pallavicini - P.Soffici) 出版社ILLER ロッサーノ (vm)  RossanoVariety – Ri FiFNPNP-10147 [45] ドリ・ゲッツィ (vf) Dori Ghezzi Durium - DuriumLdA-7668 [45]

 

FNPNP-10147FNP・NP-10147   LdA-7668Ld・A-7668 

 

 

◆ 今ぼくは生きる Ora vivo A.Pagani - A.Favata) 出版社 ALTIEREフランチェスコ・バンティ (vm) Francesco Banti Philips - Phonogram6025-003 [45] ディ-ノ・ドルジア- (vm) Dino DrusianiPhilips - Phonogram6025-004 [45]

 

6025-0036025-003    6025-0046025-004 

 

 

◆ セレナータ Serenata G.Bigazzi - T.Savio - E.Polito) 出版社 PEGASO トニー・デル・モナコ (vm) Tony Del Monaco G.Bigazzi - T.Savio - E.PolitoSRL-10581 [45] クラウディオ・ビルラ (vm) Claudio Villa Cetra - Fonit CetraSP-1426 [45]

 

SRL-10・581   SP-1426 PS- 186

SRL-10581                 SP-1426                      PS- 186

 

 

◆花の季節 La stagione di un fiore S.Ruisi - L.Rossi) 出版社 TANKエミリアーナ (vf)I Emiliana Variety – Ri FiFNPNP-10148 [45] イ・ジェンス (compl) I Gens DET CAMDTP-53 [45]

 

FNP・NP-10148FNP・NP-10148   DTP-53DTP-53 

 

 

 

最後に紹介するのはヴィンチェンツォ・ミコッチ(Vincenzo Micocci)が作ったグルッポITです。

 it (Label)

 出来た当初は Dischi Italia Edizioniでしたが、発展するにしたがってミッコッチが頭についたようです。まず私の書いた過去ブログの「ヴィンチェンツォ・ミコッチ」を読んでから、読み進めて頂いた方が理解しやすいと思います。第二次世界大戦後のイタリア軽音楽界を作り上げた大物プロデューサーでその影響は現在までも及ぼしています。

 グルッポITがマイナー・レーベルを抱え、RCAイタリアーナがそのITの販売権をもっているという二重構造になっています。またミコッチが上司でRCAイタリアーナの総帥エンニオ・メリス(Ennio Melis)と取り交わした約束は、弟子のエドアルド・ヴィアネッロが持っているアポロ・スタジオを使い音源を制作し、ITレーベルで販売していく、その歌手に才能が有り将来性が見込めれば、RCAイタリアーナの所属とし、強力なプロモーション活動を展開する、というものでした。

 親会社も新人発掘に有利な話しで、RCAイタリアーナの70年代、80年代の礎となりました。ITの傘下にはキャット(CAT)、デルタ(DELTA)、マーク3(MARK 3)、セヴン・レコーズ(SEVEN RECORS、ヴァリアント(VALIANT)があり、それぞれがRCAイタリアーナのディストリビューションに乗って発売されています。

 70〜71年に契約した若い才能はフランチェスコ・デ・グレゴリ(Francesco De Gregori)、アントネッロ・ヴェンディッティ(Antonello Venditti)、ジョルジョ・ロ・カッショ(Giorgio Lo Cascio)、ロザリーノ・チェラマッレ(Rosalino Cellamare)はロザリーノの芸名でサンレモ音楽祭に出場し、後にロン(Ron)と呼ばれる大歌手に成長します。

 その後も新しいカンタウトゥーリのリノ・ガエターノ(Rino Gaetano)、ジャンニ・トーニ(Gianni Togni)、セルジョ・カプート(Sergio Caputo)を育て、80年代にはアマデオ・ミンギ(Amedeo Minghi)、マリオ・カステルヌオーヴォ(Mario Castelnuovo)やパオラ・トゥルチ(Paola Turc)も活躍します。

 しかし親会社である米RCAビクターの業績不振により、RCAグループは87年にドイツのBMGに買取られることとなり、ミコッチはRCAから離れ、英国ヴァージンのグループに入る選択をしました。

 

 

           DINO DRUSIANI            BF-69003

          ディーノ・ドルジアーニ (PHILIPS)   グルック通りの若者 (Clan Celentano) 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には""を、参加曲の頭には""を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。


サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO) 56 1970年-3

  3番目の特徴は、この回から初出場の歌手に対して報酬(ギャラ)が支払われるようになったことです。何度か出場経験のある歌手はどういう状態か書いたものはありません。考えられるのはノー・ギャラであるか、反対に参加料を支払わなければならないかです。

 過去ブログに書いたのですが、64年から外国人歌手が参加する事になった時の話で、『・・・出場する外人・・・は・・・特別扱いにされるの・・・ですが、サンレモ音楽祭の場合・・・イタリア人歌手と同様に参加料400万リラが科せられ・・・』、60数年続く音楽祭のギャラの話は良く判りません。

 

        Ld・A-7649     ZT-7025    
   ドリ・ゲッツィ (DURIUM)       ロザリーノ (IT)

 

 ところで初出場の歌手にギャラを払うことになった理由も書いてありません。考えられるのは、イタリアの歌手ユニオンからの強い要請か、ギャラを出さないと有望な歌手が出場しなくなったのか。

 今回久々に困ったのは、初出場歌手の顔写真画像が見つけるのが難しかったことです。特にカストロカーロの新人コンテスト優勝者ルチア・リッツィとディーノ・ドルジアーニはサンレモ出場曲のシングル盤を1枚出しただけで消え去ったようです。またドルジアーニのパートナー、フランチェスコ・バンティはシングル盤3枚のみ、ジャケット画像はサンレモ曲しかみつからず、なんとかサッカ-少年時代の写真を探出しました。

 一方ではリッキ&ポーヴェリ、パティ・プラヴォー、ロンとなったロザリーノ、ドリ・ゲッツィも巣立って大成しています。

 

第20回 1970年2月26日()~2月28日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:Presエンリコ・マリア・サレルノ (Enrico Maria Salerno)、ヌッチョ・コスタ(Nuccio Costa)、イラ・フルステンベルグ (Ira Fustenberg)
楽団指揮: 28名の指揮者で演奏された。

オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督エツィオ・ラダエリ (Ezio Radaelli)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に13曲を歌い、各夜の中から7」曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。

 

出場歌手は52歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。

初出場24歌手(内外人1歌手)、出場レコード会社18社で初出場6社、外人歌手のみの出場会社は1社です。 ただし、その内RCAイタリアーナ・グループに属するレコード会社が4社含まれています。[]は外人歌手数

RCA ITALIANA [] CGD[]RICORDI[1]RI FI []FONIT CETRA[]ARISTON []Clan Celentano[]PHONOGRAM []  DURIUM []CAROSELLO []CAR-JUKE BOX []DET(CAM)[0];新PDU []; 新SIF1 [1] ;(以下RCA ITALIANA Groupe)新LITTLE [];新IT [];新APOLLO [];新NUMERO UNO []

 

          JT-4015        Emiliana

          パオロ・メンゴリ (CDI-JET)        エミリアーナ (VARIETY)

 

 

<参加曲>

できごと Accidenti D.Pieretti - R.Gianco出版社 PEGASO スーペル・グルッポ (compl)  Supergruppo Ricordi – Ricordi SRL-10582 [45] ロッキー・ロバーツ (vm) Rocky Roberts Circus Durium CNA-9318 [45]

 

 SRL-10582SRL-10・582   CNA-9318CN・A-9318 

 

 

別離 L'addio S.Bardotti - A.Lo Vecchio - P.Maggi出版社 RI-FI Mus. ミケ- (vm) Michele Ri Fi – Ri FiRFNNP-16388 [45] ルチア・リッツィ (vf) Lucia Rizzi Cetra – Fonit CetraSP-1424 [45]

 

RFN・NP-16388  SP-1424 HIT-1736 

RFNNP-16388            SP-1424          HIT-1736

 

 

アイ・アイ・ラガッツォ Ahi, ahi, ragazzo (F.Migliacci - U.Napolitano) 出版社RCA リタ・パヴォーネ (vf) Rita Pavone RCA ITALIANA - RCA ITALIANAPM-3511 [45] バレリア・モンガルディ- (vf) Valeria Mongardini Talent - RCA ITALIANATL-  31 [45]

 

PM-3511PM-3511   TL-  31TL- 31 

 

 

◆ 夜の足音 Ahi! Che male che mi fai P.Minellono - S.Cutugno) 出版社 CURCIグルック通りの若者 (compl) I Ragazzi della via Gluck Clan Celentano - CBS SugarBF-69042 [45] パオロ・メンゴリ (vm) Paolo Mengoli CDI-JET – AristonJT-4018 [45]

 

BF-69042 JT-4018 NO IMAGE-WANTED    

BF-69042         JT-4018          PS- 187

 

 

◆ 天使のほほえみ (愛の太陽) Che effetto mi fa P.Minellono - P.Donaggio) 出版社 CURCI. ピノ・ドナッジォ (vm) Pino Donaggio Carosello – CaroselloCI-20248 [45] サンディ・ショウ (vf=e) Sandie Shaw RCA Victor - RCA ITALIANAN- 1597 [45]

 

CI-20248CI-20248  N- 1597N- 1597 

 

 

◆ さらば青春 Ciao anni Verdi V.Pallavicini - Al.Celentano - N.De Luca) 出版社 FIRSTイ・ドモドッソーラ (coro) I Domodossola PDU PDUPA-1031 [45] ロザンナ・フラテルロ (vf) Rosanna Fratello Ariston AristonAR-0352 [45]

 

PA-1031  AR-0352 HIT-1738  

PA-1031                   AR-0352         HIT-1738

 

 

 

参加曲の残りは次回に続く

 

 

 初参加レコード会社3回目は歌手の作った会社を2社の紹介いたしましょう。

 

Little Records

 最初はリトル・レコーズ(Little Records)です。
 69年末にチェレンターノやミーナのように自分の会社リトル・レコーズを興します。 会社はトニーと兄のエンリコ、アルベルト・チャッチが中心となりました。

 新人としては女優のギャビー・ベルスキー(Gaby Verusky)、サラ・シモーネ(Sara Simone)、バンドのアクァヴィターエ(Aquavitae)、ローマの歌手フランコ・トルトーラ(Franco Tortora)を迎え、72年夏のディスク・フェスティヴァルに出場させましたが、思うような結果は得られませんでした。

 最初はフォノグラムで翌70年マルにRCAイタリアーナに変更し、71年のサンレモ音楽祭に出場します。また年末にEMIイアリアーナに再変更、72年末には古巣のドゥリウムに任すことになりました。

 その頃になると会社は休業同様となり、彼のピーク時での起業だったので、人気も下り坂の会社経営は辛かったようです。販売権を扱うメジャー会社を毎年変え、ついに5年目の74年で会社を閉じました。

 

 

 次はアポロ(APOLLO)です。

APOLLO

 歌手エドアルド・ヴィアネッロ(Edoardo Vianello)とウィルマ・ゴイク(- Wilma Goich)夫妻が歌うことが好きな作詞家フランコ・カリファーノ(Franco Califano)と1969年に作った会社です。会社自体は自分たちのデュエット・チーム、ヴィアネラ(I Vianella)の販売と新人発掘が目的です。

 会社名とロゴはこの年7月にアポロ11号が有人月面着陸に成功、それイメージしたと言われています。販売権はヴィアネッロの古巣RCAイタリアーナに委ね、自らは録音スタジオ、スタジオ38(別名アポロ・スタジオ)を開き、関係会社ITなどの歌手のレコーディングをしていました。

 アポロ・スタジオからリッキ&ポーヴェリ、アマデオ・ミンギ(Amedeo Minghi)、デュエット・チームのトーラス・キャンパス(Theorius Campus)を組んでいたフランチェスコ・デ・グレゴリ(Francesco De Gregori)とアントネッロ・ヴェンディッティ(Antonello Venditti)たちの歌手が巣立って行きました。

 69年RCAイタリアーナは古参有名歌手達をサブ・レーベルに移籍や、アポロのように企業内子会社を作らせ独立させました。ジャンニ・モランディにも作詞家フランコ・ミリアッチとMi-Moを作らせています(彼のレコードはそのまま親レーベルで発売)。

 74年経営方針が変わり、それらを整理します。アポロは会社を閉じてヴィアネラはRCAイタリアーナに移籍します。ウメロ・ウーノは営業権を売ったり、ジャンニ・メッチアのプル(PULL)のように独立する会社もありました。

 

 

 

 

          BF-69046        Francesco Banti b     

         ピオ (Clan Celentano)          フランチェスコ・バンティ (PHILIPS)   

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には""を、参加曲の頭には""を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。

サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO) 55 1970年-2

第20回大会は外人歌手の出場が厳しく制限されました。64年から外人歌手とパートナー制となり、翌65年の2年間続きました。66年に自国歌手の出場枠を圧迫するので、外人またはベテラン歌手とパートナーを組む改められ5年経過しました。

 今回はイタリアの歌手ユニオンから外人歌手は永住権を取っているマルとロッキー・ロバーツの2人を含む4人しか外国人歌手を認めないという要求でした。他の2名はイギリスから初出場のサンデイ・ショウと67年から4年連続出場をしているフランスのアントワーヌでした。

 

        ZA-50080         SS-1858      
    リッキとポーヴェリ (APOLLO)           サンディ・ショウ (RCA)

 

第20回 1970年2月26日()~2月28日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:Presエンリコ・マリア・サレルノ (Enrico Maria Salerno)、ヌッチョ・コスタ(Nuccio Costa)、イラ・フルステンベルグ (Ira Fustenberg)
楽団指揮: 28名の指揮者で演奏された。

オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督エツィオ・ラダエリ (Ezio Radaelli)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に13曲を歌い、各夜の中から7」曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。

 

出場歌手は52歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。

初出場24歌手(内外人1歌手)、出場レコード会社18社で初出場6社、外人歌手のみの出場会社は1社です。 ただし、その内RCAイタリアーナ・グループに属するレコード会社が4社含まれています。[]は外人歌手数

RCA ITALIANA [] CGD[]RICORDI[1]RI FI []FONIT CETRA[]ARISTON []Clan Celentano[]PHONOGRAM []  DURIUM []CAROSELLO []CAR-JUKE BOX []DET(CAM)[0];新PDU []; 新SIF1 [1] ;(以下RCA ITALIANA Groupe)新LITTLE [];新IT [];新APOLLO [];新NUMERO UNO []

 

 さて、問題となったのはフランスからもう1人ニーノ・フェレールが出場しています。彼はミーナのヒット曲“わかれ(別離)”を自作自演したフランス人歌手として活動していますが、元々はジェノヴァ生まれの本名アゴスティーノ・マリア・フェッラーリ(Agostino Arturo Maria Ferrari)です。しかも68年にはアゴスティーノ・フェッラーリとして自作の“イギリスの王さま(Il re d'Inghilterra)”でサンレモ初出場を果たしています。サンレモはイタリア人作家以外の曲の応募を認めていないので、彼はイタリア人以外何者でもないと思っていました。

 ところがオーガナイザーのエンツォ・ラダエリ(Ezio Radaelli)が事前にイタリアのパスポートの提示しなければ出場を認めないと言い出しました。この偏向的な姿勢にフランス人記者たちは猛反発したと言うことです。

        Claudia Mori (1970)       Michele
        
クラウディア・モーリ (Clan Celentano)  ミケーレ (RI FI)

 

 

<入賞曲>

雨のロマンス Taxi G.Argenio - D.Pace - M.Panzeri - C.Conti出版社 ARISTON <52> アンナ・イデンティチ (vf)  Anna Identici Ariston – Ariston AR-0342 [45] アントワーヌ (vm=f) Antoine Vogue RicordiVG-87012 [45]

 

  AR-0342 HIT-1737  VG-87012 

AR-0342         HIT-1737           VG-87012

 

 

10 太陽と雨と風 Sole, pioggia e vento Mogol - E.Isola) 出版社 UNIVERSALE <44> ルチアーノ・タヨーリ (vm) Luciano Tajoli CAR JUKE BOX – PhonogramTLCNP-515 [45] マル (vm) Mal RCA ITALIANA – RCA ITALIANAZA-50050 [45]

 

TLCNP-515 TLC・NP-515   PM-3509PM-3509 

 

 

10 ティピティピティ Tipitipitì (D.Pace - M.Panzeri - L.Pilat) 出版社ESEDRA <52> マリオ・テッス- (vm) Mario Tessuto CGD - CBS SugarN-9764 [45] オリエッタ・ベルティ (vf Orietta Berti Poldor – Phonogram2060-003 [45]

 

N-9764N-9764 HIT-1739HIT-1739

2060-0032060-003  DP-1714 DP-1714

 

 

11恋は鳩のように L'amore è una colomba G.Bigazzi - T.Savio) 出版社 ACE  -  ADRIATICA <41> ジャンニ・ナザーロ (vm)  Gianni Nazzaro CGD - CBS SugarN-9767 [45] マリーサ・サンニア (vf) Marisa Sannia CGD – CBS SugarN-9763 [45]

 

N-9767N-9767 HIT-1734HIT-1734

N-9763N-9763 HIT-1733HIT-1733

 

12ヒッピー Hippy L.Beretta - F.Leali) 出版社 RI FI Mus. <37>.ファウスト・レアーリ (vm) Fausto Leali (Ri Fi – Ri FiRFNNP-16386 [45] カルメン・ヴィラーニ (vf) Carmen Villani Cetra – Fonit CetraSP-1425 [45]

 

RFNNP-16386RFN・NP-16386 SFL- 1261SFL- 1261

SP-1425SP-1425 PS- 186 PS- 186

 

 

13カンツォーネ・ブルー Canzone blu A.Testa - Mogol - T.Renis) 出版社 UNIVERSALE <28 > トニー・レニス (vm)         Tony Renis Numero Uno RCA ITALIANAZN-50019 [45] セルジョ・レオナルディ (vm) Sergio Leonardi CGD CBS SugarN-9766 [45]

 

ZN-50019 SS-1945  N-9766   

ZN-50019         SS-1945          N-9766

 

 

14心の王さま Re di cuori G.Bigazzi - T.Savio - C.Cavallaro) 出版社 TIBER <24>.カテリーナ・カセルリ (vf) Caterina Caselli CGD - CBS SugarN-9768 [45] ニーノ・フェレール (vm=f) Nino Ferrer Rivira SIFRIVNP-77036 [45]

 

N-9768 PS- 185   RIV・NP-77036   

N-9768          PS- 185           RIVNP-77036

 

 

次回は参加曲に続く

 

 

 

Camaleonti (1969))          SMRL-6069

         イ・カマレオンティ (CBS DISCHI)       スーペル・グルッポ (RICORDI)

 

 2番目に紹介するのは、RCAイタリアーナの傘下で活動しだしたレコード会社ヌメロ・ウーノです。プログレ系の人ならなじみの深い会社名だと思います。ルチオ・バッティスティ(ルーチョ・バティスティ)と作詞家、レコード・プロデューサーのモゴールが設立した会社です。68年に初出場したルチオ・バッティスティの項も合わせてお読みください。と書きましたがそう簡単なものでもありませんでした。

出資面ではバッティスティとモゴール(ジュリオ・ラペッティ)が核となっていますが、実務上はモゴールの父で作詞家のカリービ(マリアーノ・ラペッティ)が社長となり、プロデューサーとしてモゴールの仲間で作詞家のアレッサンドロ・コロンビーニ達が会社の中心となります。

それにルーチョ・バッティスティ、プロデューサー(後に脚本家、映画監督)のクラウディオ・ボニヴェント、フランコ・ダルデッロ(後に音楽出版業界の大物)、人気作曲家のカルロ・ドニーダが加わりRCA イタリアーナの総支配人エンニオ・メリスが販売権契約する力添えがあり設立しました。

 

Numero Uno   

 

69年アリストンからマラ・マイオンキ(Mara Maionchi)がプロモーション担当の責任者として入社、9月には最初のシングル盤が発売されます。ルチオ・バッティスティのバックバンドをしているフォルムラ3(Formula 3)の“Questo folle sentiment (この狂った想い)/Avevo una bambola”です。所属の歌手は後に大歌手になるエドアルド・ベンナート(Edoardo Bennato)やまだ無名のバンドたちで、スターはRCAイタリアーナから移籍してきたトニー・レニスぐらいでした。

 70年になりヌメロ・ウーノのもう1本の柱となるジェノヴァ派カンタウトゥーリ、ブルーノ・ラウツィ(Bruno Lauzi)が移籍してきました。まもなくイタリアのロック・バンドとして知られるジャンボ(Jumbo)がデビューします。

リコルディにいた二人が69年に会社を起こしましたが、バッティスティは71年まで歌手契約が残っていたので、彼の移籍は契約満了の71年になります。これで本来目指す姿になりました。72年マリオ・テッスートも移籍しますが、会社自体が新しい音楽を追求していき、従来のカンツォーネ歌手のトニー・レニスも73年には出ていきます。

 ヌメロ・ウーノは74年末には独立会社としての運営をやめ、経営権はRCAイタリアーナに売却し、レーベルの身を残し、90年代の半ばまで活動を続けました。

 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には""を、参加曲の頭には""を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。


サンレモ音楽祭 (FESTVAL DI SANREMO) 54 1970年-1

  何よりもまず、1970年の大会が20回記念大会だったことが特徴です。サンレモ音楽祭委本選自体は、応募303曲から選考委員会で24曲が選ばれ、全会一致しなかった最後の2曲を加え26曲としました。

 このため1967年に次ぐ52歌手、72年からダブルキャスト方式が廃止されますので、史上第2位の出場歌手が多い大会となりました。参加歌手ではルチアーノ・タヨーリ、レナート・ラシェル、クラウディオ・ビルラは記念大会に過去の優勝者を優先させた感があります。

 また現役組も過去の優勝者、セルジョ・エンドリゴとイヴァ・ザニッキ、ジリオラ・チンクェッティとボビー・ソロの顔合せは如何にも記念大会を意識した組合せですし、トニー・レニスも優勝経験者としての出場とも考えられます。

 

      Patty Pravo (1970)          PILPS-4027

      パティ-・プラヴォー (ARC)               ジャンニ・ナザーロ (CGD)

 

 2月22日日曜日から「1970年カンツォーネ週間」と銘打ったイヴェントが始まり音楽祭本選に続きました。初日22日ドメニコ・ モドゥーニョは優勝経験者のヌンツィオ ガロ、ジョニー・ドレルリを従え、ピッポ・バウドほか司会経験者も参加したガラ・コンサートに出演、23日ジョニー・アリディーからエホラム・ガオン(Yehoram Gaon)に変更となったコンサート、24日ロベルト・カルロス(Roberto Carlos)とウィリー・ケイト&ジョディー(Willy Cate & jody)のコンサート、25日映画「イージー ライダー」のプレミアム・ロード・ショーが行われました。

 だだ「サンレモの女王」ニラ・ピッツィはお祭り騒ぎを好まず出演しなかったそうです。

 

 

第20回 1970年2月26日()~2月28日() サンレモ市カジノ付属劇場

司会:Presエンリコ・マリア・サレルノ (Enrico Maria Salerno)、ヌッチョ・コスタ(Nuccio Costa)、イラ・フルステンベルグ (Ira Fustenberg)
楽団指揮: 28名の指揮者で演奏された。

オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督エツィオ・ラダエリ (Ezio Radaelli)
形式:出場曲数26曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に13曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。

 

出場歌手は52歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場24歌手(内外人1歌手)、出場レコード会社18社で初出場6社、外人歌手のみの出場会社は1社です。 ただし、その内RCAイタリアーナ・グループに属するレコード会社が3社含まれています。[]は外人歌手数

RCA ITALIANA []CGD[]RICORDI[1]RI FI []FONIT CETRA[]ARISTON []Clan Celentano[]PHONOGRAM []  DURIUM []CAROSELLO []CAR-JUKE BOX []DET(CAM)[0];新PDU []; 新SIF1 [1] ;新LITTLE [];(以下RCA ITALIANA Groupe)新IT [];新APOLLO [];新NUMERO UNO []

 

         SMRL-6076         Pld・A-5036

         ドナテッロ (RICORDI)          イ・ドモドッソーラ (PDU)

 

 

<優勝> 働かない者は恋するな Chi non lavora non fa l'amore (L.Beretta - M.Del Prete - Ad.Celentano) 出版社 CLAN <344> アドリアーノ・チェレンターノ (vm) Adriano Celentano Clan Celentano – CBS SugarBF-69040 [45] クラウディア・モーリ (vf) Claudia Mori Clan Celentano CBS SugarBF-69041 [45]

 

  BF-69040 HIT-1873  BF-69041  

 BF-69040                  HIT-1873                    BF-69041

 

 

<2位> 愛の贈りもの La prima cosa bella Mogol - N.Di Bari) 出版社 AMICI DEL DISCO < 309> ニコラ・ディ・バリ (vm) Nicola Di Bari RCA ITALIANA – RCA ITALIANAPM-3510 [45] リッキとポーヴェリ (coro) Ricchi e Poveri APOLLO – RCA ITALIANAZA-50050 [45]

 

PM-3510 SS-1945  ZA-50050    

PM-3510          S S-1945           ZA-50050

 

 

<3位> ノアの箱舟 L'arca di Noè (S.Endrigo) 出版社USIGNOLO <296> セルジョ・エンドリゴ (vm)  Sergio Endrigo Cetra – Fonit CetraSP-1423 [45] イヴァ・ザニッキ (vf)  Iva Zanicchi Ri Fi – Ri FiRFNNP-16387 [45]

 

SP-1423SP-1423  HIT-1735HIT-1735

RFNNP-16387RFN・NP-16387  SFL- 1260SFL- 1260

 

 

 <入賞曲>

4位 永遠 Eternità G.Bigazzi - M.Cavallaro) 出版社 APRIL Mus. <235> オルネラ・ヴァノーニ (vf)  Ornella Vanoni Ariston - AristonAR-0353 [45] イ・カマレオンティ (compl) Camaleonti (CBS – CBS Sugar4793(CBS) [45]

 

AR-0353 NO IMAGE-WANTED  4793(CBS)   

AR-0353            PS- 187                         4793(CBS)

 

5位 心の剣 La spada nel cuore Mogol - C.Donida) 出版社 RCA <133> .パティ-・プラヴォー (vf)   Patty Pravo (ARC – RCA ITALIANAAN-4197 [45] リトル・トニー (vm) Little Tony Little – PHONOGRAMLR-2002 [45]

 

AN-4197AN-4197    LR-2002LR-2002

 

 

6位 ロマンティコ・ブルース Romantico blues D.Pace - M.Panzeri - L.Pilat) 出版社 SUVINI ZERONI <96> ジリオラ・チンクェッティ (vf) Gigliola Cinquetti CGD - CBS SugarN-9765 [45] ボビ-・ソロ (vm) Bobby Solo Ricordi – RicordiSRL-10580 [45]

 

N-9765N-9765  HIT-1740HIT-1740 

SRL-10580SRL-10・580  DP-1713DP-1713

 

 

7位 パパ、ママに言って Pa' diglielo a ma' F.Migliacci - C.Gigli - J.Fontana - I.Greco - C.Pes) 出版社 RCA <70 >.ロザリーノ (vm) Rosalino IT RCA ITALIANAZT- 7002 [45] ナーダ (vf) Nada Talent RCA ITALIANATL-  30 [45]

 

ZT- 7002 ZT- 7002  TL-  30TL- 30 




 

 

入賞曲の残りは次回に続きます

 

 

         Lucia Rizzi         GRCD-6411     

            ルチア・リッツィ (CETRA)            イ・ジェンス (DET)

      

 

今回初参加のレコード会社は5社と多いのですが、3社がRCAイタリアーナのグループ会社です。まずはPDUから紹介していきましょう。

ミーナがリフィから69年の年末近く独立し、父ジャコモ・マッツィーニ(Giacomo Mazzini)とレコード会社と音楽出版社、PDU (Platten Durcharbeitung Ultraphone)をスイスのイタリ語地区のルガーノに興しました。会社の事実上の運営はミラノで行い、本社籍はリジテンシュタインに置いたため、その後イタリアの税務当局から租税回避行為とされました。

 

    PDUPDU    SUNSUN     

 

設立から69年までドゥリウム(DURIUM)が販売権を持ち、サブ・レーベルのサン(SUN)もつくり、ジャズやクラッシックのをリリース、また70年代に入り販売権がEMIイタリアーナになってからしばらくは他の歌手を売出す積極的に方針で展開し、新人歌手マリーサ・サケット(Marisa Sacchetto)、ティム(Tihm)、ドモドソッラ(I Domodossola)、カンタウトゥーリのロベルト・フェッリ(Roberto Ferri)を送りだしましたが成功とはいえませんでした。

販売権は70〜96年まで25年以上と言う長期間EMIイタリアーナが持っていましたが、イタリアの民間放送カナレ5の子会社ファイヴ・レコード(RTI)が97〜99年取り扱いました。99年以降はイタリアのソニー・ミュージック(Sony BMG Music)が販売権を持っています。

90年代以降は他の有力個所と同様に、ほぼミーナの個人レーベル化になり実質はレコード会社と言うよりは制作プロダクションとなっています。

 

 

 

 

・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。

・順位をつけない入賞曲の頭には""を、参加曲の頭には""を付けます。

・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。

・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。


インテルメッツォ ~ マラ・マイオンキ

 久々のインテルメッツォです。時に応じて入れようかと思うのですが、途中の息抜きの暇もなく1969年のサンレモ音楽祭を書き終えた感じです。今日紹介するイタリアの女流プロデューサー、マラ・マイオンキの名前は以前に出したのですが、覚えていらっしゃるでしょうか?

「サンレモの歌手たち」111 アンナ・イデンティチ 1、 ジーノのアンナ・イデンティチの項、同130 オルネラ・ヴァノーニ 2、に書いた名前です。

 

 

マラ・マイオンキ Mara Maionchi 

1941 4 22 日ボローニャ生、レコード・プロデューサー、テレビ・パーソナリティ。

 

                Mara Maionchi            

                     

 1959年マラは学校を卒業し18才、独立心が旺盛な彼女は進学することなくタバコの葉の殺虫剤を製造している会社に就職しました。その後、国際的な運輸会社に転職をしています。66年火災保護製品の会社に勤めるためミラノに引越してきました。

 

 67年新聞にアリストン・レコードの求人広告が載っていたので応募し、社主のアルフレド・ ロッシ(Alfredo Rossi)の面接を受け、彼の秘書として雇われることになりました。この時から彼女は幸運の波に乗ることになります。

 仕事は社長秘書で、アリストンの広報担当の仕事をします。ちょうどその頃、フランスのソルボンヌ大学出身のインテリ歌手、ジェノヴァ派カンタウトゥーリのデーヴァ的存在、オルネラ・ヴァノーニがリコルディからアリストンに移籍したところで、マラの仕事とはこのヴァノーニとマリオ・ガルネラのプロモーション活動をすることでした。

 

 ヴァノーニもアリストンに移籍後、歌手としてステップアップし、一般的人気のある歌手に成長したのは、マラ・マイオンキの影響があり、マラ自身もプロモーターとして成長した時代でした。この頃の彼女の仕事を、プロデューサーとつい書いてしまうのですが、音楽プロデューサーというよりは、アーティスト・プロモーターというべき仕事をしたと思われます。

 

AR-0244 (19682Ariston - Ariston) カーザ・ビアンカ(Casa bianca)/Serafino(セラフィ-ノ)

AR-0244AR-0244 AR-0242AR-0242 

AR-0244 (19682 Ariston - Ariston) Quando m'innamoro(愛の花咲くとき)/Cielo mio(私の空)

 

 彼女はもう一つ大きな仕事をしています。68年サンレモ音楽祭に出場を予定していたアリストンの若手人気歌手アンナ・イデンティチに強力な楽曲を獲得してきます。ジリオラ・チンクェッティのサンレモ出場のために書かれた“愛の花咲くとき(Quando m'innamoro)”と“夕べのしあわせ(Sera)”の2曲を選択の結果、チンクェッティは“夕べのしあわせ”をサンレモ音楽祭出場曲に決めました。

 マラは“愛の花咲くとき”をイデンティチにもたらしました。“愛の花咲くとき”は年間ヒット・ランク49位の大ヒット、一方“夕べのしあわせ”は同100位以内に入りませんでした。マラは音楽産業の経験はなかったものの天性の素質を持っているのが認められ、レコード会社を変わりながら大プロデューサーになっていきます。

 

 69年人気カンタウトゥーリ、ルチオ・バッティスティ(Lucio Battisti)と作詞家、プロデューサーのモゴール(Mogol)が新会社ヌメロ・ウーノ(Numero Uno)を起ち上げた時にアリストンから転職をしました。仕事はプロモーション担当の責任者でした。74年ヌメロ・ウーノの経営権がRCAイタリアーナに移った後、75年に作曲家と仕事をした経験を踏まえリコルディに移りました。

 

 翌76年マラは多くアリストンの仕事に係り、アルバトロスが歌った77年サンレモ音楽祭優勝曲“涙の日曜日(BELLA DA MORIRE)”の作詞家アルベルト・サレルノ(Alberto Salerno)と結婚、二人の娘ジュリア(Giulia)とカミッラ(Camilla)を授かります。彼女にとってこの結婚も将来大きな影響を及ぼします。

  彼女はリコルディでも広報担当支配人の仕事に就き、ヌメロ・ウーノ在籍中の74年頃に知り合ったジャンナ・ナンニーニ(Gianna Nannini)をリコルディと独占契約をさせ、またウンベルト・トッツィ(Umberto Tozzi)も歌手として世に送り出しました。

 

ORL-8741 (1976RICORDI - RICORDI) 30cmLP GIANNA NANNINI (ジャンナ・ナンニーニ)

ORL-8741ORL-8741 MWF-1002MWF-1002 

MWF-1002 (19768 RICORDI -ポリドール) 30cmLP追想 (UN ALTRO GIORNO CON ME)

 

 既存の歌手ではミア・マルティーニ(Umberto Tozzi)やファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De André)のディレクターの仕事をしました。ミア・マルティーニはアルバム「追想」の制作で、会社側と意見が合わずリコルディを去ったという話もあるので、マラとそりが合わなかったのかもしれません。

 一方エドゥアルド・デ・クレシェンツォ(Eduardo De Crescenzo)も担当し81年サンレモ音楽祭に“アンコーラ(Ancora)”を歌わせ、入賞、年間ヒット・ランク42位となる大ヒットにしています。この曲“アンコーラ”は日本でもオルネラ・ヴァノーニの歌で良く知られているのは、何か因縁があるのでしょうか。

 

SRL-10933 (19812Ricordi - Ricordi) Ancora (アンコーラ)Il treno

          SRL-10933SRL-10・933 

 

 RAI子会社であったフォニット・チェトラはヒットを出す歌手が減り、経営が苦しくなっており、80年代に入りリコルディの支援を受けていました。その一環かどうかわかりませんが、83年フォニット・チェトラに芸術ディレクターとして招かれました。ここで“ナポリ音楽の世界大使”と言われたレンツォ・アルボーレ(Renzo Arbore)などを担当しました。

 しかしマラは83年独立し、夫アルベルト・サレルノと自分たちの会社を起上げることにしました。名前はジリオラ・チンクェッティの歌った64年サンレモ音楽祭の優勝曲と同じ「夢みる想い(Non Ho L'età)」、またなぜ?と思われるかもしれません。

 アルベルト・サレルノの父はニコラ・サレルノ(Nicola Salerno)すなわち有名作詞家ニーサ(NISA)。当時新進作曲家ジーン・コロネッロ(Gene Colonello)が2曲目の“夢みる想い(Non Ho L'età)”を出品したいために名義借りした作詞家ニーサなのです。シニカルにもその曲名をアルベルトとマラは父へのオマージュとして会社名につけたそうです。

 

 2007年新人発掘レーベルとして「夢みる想い(Non Ho L'età)」を使いCD制作も始めました。最大の功績は不遇であった通称TZN、ティツィアーノ・フェッロ(Tiziano Ferro)をスペイン語、英語、フランス語、ポルトガル語で歌える才能を生かし、特に中南米に圧倒的な人気を誇る歌手として育てたことだと言われています。

 

 そして近年マラ・マイオンキの有名になります。新たな彼女の顔、それはテレビ・パーソナリティとしての存在です。

 イタリアのRAI2の人気新人発掘番組「Xファクター(X Factor)」の審査員として出演してからです。イギリスで大人気の番組を国営放送局RAI2やスカイ1等が放送したイタリア版ですが、今までの音楽プロデューサー、プロモーターとしての経験を生かした辛口のコメントが大人気となったようです。日本では沖縄テレビが沖縄版を制作しています。

 また2013年の優勝者マルコ・メンゴーニ(Marco Mengoni)も2009年第3回「Xファクター」の優勝者でした。

 

 しかも彼女は2010年Xファクターを種にしたラップ曲も出しています。

20101013日  Fantastic (My Own Key)  Download digitale

Mara Maionchi X-Factor 

 


サンレモ音楽祭のコンピレーション(オムニバス)盤 10 (1969年)

1969年度のサンレモのコンピのLPはキングから発売された2枚組とコンパクト盤3枚、だけでRCAイタリアーナから5人、ドゥリウムは4人、リフィとフィリップスは3人出場したにもかかわらず日本ビクターからは発売されませんでした。

カッコ内はイタリア人歌手ですが、各社の出場歌手数は以下の通りです。比較的満遍なく割り振られている状況、反対にいえばアルバムを作るだけのオリジナル歌手がそろわなかったことになります。

 

Ricordi 7 (7)CGD 6 (5)RCA Italiana 6 (5)Fonit-Cetra 4 (4)Durium 4 (4)Ariston 4 (4)RI-FI 4 (2)Carosello 3 (3)SAAR 3 (2)Phonogram Italiana 2 (2)EMI ITALIANA  2 (1)DET 1 (1)MIURA1 (1) ※( )内はイタリア人歌手の数

 

 アリストンとミウラは日本で契約会社がなく、アリストンの場合は68年に日本コロムビアからオルネラ・ヴァノーニとアンナ・イデンティチが発売されていますが、一本買だったため69年は無契約状態でした。

 キングはリコルディ7、CGD5、フォニット・チェトラ4、カロセッロ3、カム(デット)1の21人の歌手のオリジナル曲とカヴァー曲で28曲の2枚組のサンレモ音楽祭のコンピレーションを出しました。

 

 「サンレモの歌手たち」のフランス・ギャルの項で書きましたように、ギャルの“雨”のライツはCGDが持っていたにも拘らず、日本(ギング)では発売されませんでした。私も今回彼女の項を書くまでは、69年初頭の頃まではフランス・フィリップスに在籍しているものと思い込んでいました。

 

 キング側(河合秀朋さん)がフィリップスから離れていることを、知っていたのか、知らなかったのか今となってはわかりませんが、仮に知っていたとして、ジリオラ・チンクェッティを守るためフランス・ギャルの“雨”を発売していたかどうか疑問が残るところです。

 外人歌手の場合、マリアンヌ・フェイスフルやティミ・ユーローのようにイタリアのレコード会社との契約と、本国と日本のレコード会社の契約が異なりますので、きっとキング・レコードは、フランス・ギャルはフィリップスの歌手と思っていたと言うことで納得しておきましょう。

 

GW-  178 (1969520SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP第19回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969)

1-.涙のさだめ (ZINGARA) ボビー・ソロ (vm)
1-
. (LA PIOGGIA) ジリオラ・チンクェッティ (vf)
1-
.恋の遊び (IL GIOCO DELL'AMORE) ジョニー・ドレルリ (vm)
1-
.冒険 (UN'AVVENTURA) ルチオ・バティスティ (vm)
1-
.恋の終り (ALLA FINE DELLA STRADA) ジュニア・マッリ (vm)
1-
.女性が最高 (LE BELLE DONNE) ロベルティーノ (vm)
1-.愛の詩 (QUANDO L'AMORE DIVENTA POESIA) クラウディオ・ビルラ
(vm)
1-
.消えたほほえみ (UN SORRISO) ドン・バッキー (vm)
1-
.恋のズッケロ (ZUCCHERO) リタ・パヴォーネ (vf)
1-10.
過ぎ去ったひととき (UN'ORA FA) トニー・デル・モナコ (vm)
1-11.
しのび泣く今宵 (MEGLIO UNA SERA (PIANGERE DA SOLI)) クラウディオ・ビルラ (vm)
1-12.
君だけのぼく (IO CHE HO TE) ニュー・トロルス (compl)
1-13.バダ・バンビーナ (BADA BAMBINA) セルジョ・レオナルディ (vm)
1-14.
瞳はるかに (LONTANO DAGLI OCCHI) フランコ・セイ (vm)

2-.瞳はるかに (LONTANO DAGLI OCCHI) セルジョ・エンドリゴ (vm)
2-
.恋の遊び (IL GIOCO DELL'AMORE) カテリーナ・カセルリ (vf)
2-
.恋のズッケロ (ZUCCHERO) ディク・ディク (compl)
2-
.バーチ・バーチ・バーチ (BACI, BACI, BACI) ウィルマ・ゴイク (vf)
2-
.愛のだんらん (UNA FAMIGLIA) メモ・レミージ (vm)

2-
.なんて寒い (MA CHE FREDDO FA) ロサルバ・アルキレッティ (vf)
2-
. (LA PIOGGIA) ガブリエラ・マルキ (vf)
2-
.消えたほほえみ (UN SORRISO) ミルバ (vf)
2-
.愛の詩 (QUANDO L'AMORE DIVENTA POESIA) マッシーモ・ラニエリ (vm)
2-10.
ピッコラ・ピッコラ (PICCOLA PICCOLA) カルメン・ヴィラーニ (vf)
2-11.
愛の妙薬 (COSA HAI MESSO CAFFE') リカルド・デル・トゥルコ (vm)
2-12.
沈んだ太陽 (IL SOLE E' TRAMONTATO) エリオ・ガンドルフィ (vm)

2-13.
恋人だった (SE TU RAGAZZO MIO) アンブラ・ボレルリ (vf)
2-14.
涙のさだめ (ZINGARA) アイーダ・ノーラ
(vf)

GW-  178 GW- 17~8a  PS- 123PS- 123 

PS- 123 (19694SEVEN SEAS - キング) 17cm CP第19回サン・レモ音楽祭第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969 Vol.1)

.涙のさだめ (ZINGARA) ボビー・ソロ (vm)

.消えたほほえみ (UN SORRISO) ミルバ (vf)

.ズッケロ (ZUCCHERO) リタ・パヴォーネ (vf)

.過ぎ去ったひととき (UN'ORA FA) トニー・デル・モナコ (vm)

 

PS- 124 (19694SEVEN SEAS - キング) 17cm CP第19回サン・レモ音楽祭第2集 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969 Vol.2)

. (LA PIOGGIA) ジリオラ・チンクェッティ (vf)

.愛の詩 (QUANDO L'AMORE DIVENTA POESIA) マッシモ・ラニエリ (vm)

.恋の遊び (IL GIOCO DELL'AMORE) カテリナ・カセルリ (vf)

.愛の妙薬 (COSA HAI MESSO CAFFE') リカルド・デル・トゥルコ (vm)

PS- 124PS- 124  PS- 125PS- 125

PS- 125 (19694SEVEN SEAS - キング) 17cm CP第19回サン・レモ音楽祭第3集 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969 Vol.3)

.瞳はるかに (LONTANO DAGLI OCCHI) セルジョ・エンドリゴ (vm)

.しのび泣く今宵 (MEGLIO UNA SERA (PIANGERE DA SOLI)) クラウディオ・ビルラ (vm)

.ピッコラ・ピッコラ (PICCOLA PICCOLA) カルメン・ヴィラーニ (vf)

.君だけのぼく (IO CHE HO TE ニュー・トロルス (compl)

 

コンパクト盤もキング一社のみで、このコンパクト盤はLPに収録されている曲とすべて重複して必ずしも買う必要もなかったので、案外レア的存在になっているかもしれません。

 

 

 もう1枚紹介する盤は、イタリア本国ではよくある形式なのですが、演奏による各年度の曲を紹介するLPです。イタリアの各レコード会社はサンレモ音楽祭に参加する、しないに係らずサンレモ音楽祭の曲で色々なレコードを出し、商売にしています。

 これが国営放送局と音楽著作権組織の本来の目的でした。サンレモ音楽祭の曲で如何にイタリア音楽産業のすそ野を広げ、繁栄させていくかと言うことです。

 

 日本コロムビアからでた盤はオルガン、まだキー・ボードが一般的でなく電気を使ったハモンド・オルガンが普通に使われ、このLPも安上がりなこの楽器を使っています。レコード会社はミーナがデビューしたイタル・ディスクですが、彼女が抜けた後はこれと言った歌手も育たず、以前の零細レコード会社に戻ってしまいました。

 

YS- 2155LT (19696COLUMBIA - 日本コロムビア) 30cmLP ムード・イン・サンレモ’69 (FESTIVAL DI SANREMO 1969) ディノ・コキーニ (DINO COCCHINI (og))

.涙のさだめ (ZINGARA)
.瞳はるかに (LONTANO DAGLI OCCHI)
.愛の詩 (QUANDO L'AMORE DIVENTA POESIA)
.過ぎ去ったひととき (UN'ORA FA)
.愛の妙薬 (COSA HAI MESSO CAFFE')
.バダ・バンビ-ナ (BADA BAMBINA)
.美しき君 (TU SEI BELLA COME SEI)
.消えたほほえみ (UN SORRISO)
.ピッコラ・ピッコラ (PICCOLA PICCOLA)
10.
恋の遊び (IL GIOCO DELL'AMORE)
11.
(LA PIOGGIA)
12.
冒険 (UN'AVVENTURA)
13.
なんて寒い (CHE FREDDO FA)

         YS- 2155LTYS- 2155・LT

 

 

 さて、これで1969年第19回サンレモ音楽祭も終了です。


 

 この19回を書き始め、約1年経ってしまいました。私ごとですが、有料老人ホームに入居することが決まり、引越しの準備を始め、住んでいるマンションを売却する手配をし、それぞれを実行するために、長期間のお休みを頂きました。

 

 昨年秋に老人ホームに入居後も、後片付けに追われ、今年になって定期的に書けるようになりました。ただ、時代がすすみ、残された資料も多くなるにつれ、1回に書く準備はほぼ3日かかります。絶えず原稿書きに追われている状態で、今後はもっとアップするペースを落とすことも考えておりますが、もう少し頑張ってみようかとも思っております。


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