- Date: Thu 15 08 2013
- Category: サンレモ音楽祭 > サンレモの歌手たち
- Community: テーマ "洋楽" ジャンル "音楽"
- Response: Comment 0 Trackback 0
サンレモの歌手たち 98 ペピーノ・ガリアルディ、 ダスティー・スプリングフィールド
私の過去ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/4256050.html、http://blogs.yahoo.co.jp/cnz27hrio/4278672.html も合わせてご覧ください。
★ペピーノ・ガリアルディ (vm) Peppino Gagliardi
本名ジュゼッペ・ガリアルディ(GIUSEPPE GAG;LIARDI)、1940年5月25日ナポリ生、自作自演歌手。
コンサート・ピアニストを目指しピアノに転向する前、彼の地元で天才子供アコーディオン演奏者と言われていました。その後イ・ガリアルディ(I Gagliardi)というバンドを作りナポリ周辺で演奏活動をしていました。ナポリのでコード会社ゼウス(ZEUS)は今も続いていますが、1962年に出来たばかりの会社で、ガリアルディが第1号歌手として契約しレコード歌手デビューをしました。
翌63年“T'AMO E T'AMERO'(愛し、愛され)”がヒットし、一躍注目を浴びます。すでにスターになっていたリトル・トニー(LITTLE TONY)と共作になりました。年間ヒット・ランクでメジャーのドゥリウム(DURIUM)に居たリトル・トニーは34位、出来たばかりのナポリのマイナー・レーベルで宣伝力も無いガリアルディが年間62位のヒットとなったことは、大成功だったのがお分かりになると思います。この年の後半にメジャーのサール(SAAR)に移籍しました。
移籍前後に出した“Ascolta mio Dio”は年間59位、64年の“Questa sera non ho pianto”は年間88位のヒットとなり、ナポリ系の実力新人歌手として認められ、65年初めてのサンレモ音楽祭に出場しました。
ペピーノ・ガリアルディの国内盤
MH- 207 (1965年8月 SEVEN SEAS -キング) 30cm LP 一緒にカンツォーネを歌おう第6集 (LE PIU' BELLA CANZONI Vol.6)
13. 君を信じて (TI CREDO)
HIT-1285 (1965年8月 SEVEN SEAS -キング) 愛してるんだ君だけを (INNAMORARMI DI TE)/君は太陽 (GRAZE, CALDO SOLE)
1966年サンレモ音楽祭のあとにペピーノ・ガリアルディ2が続きます
★ダスティー・スプリングフィールド (vf=e) Dusty Springfield
本名メアリー・イザベル・キャサリン・バーナデット・オブライエン (Mary Isabel Catherine Bernadette O'Brien) 1939年4月16日ロンドン生、1999年3月2日ロンドン近郊のヘンリー・オン・テムズ没。イギリスのポップス歌手、白人ソウル・シンガー。
音楽好きの家庭に育ち、子供の頃はサッカーをして何時も土埃に塗れるお転婆だったのでダスティーと言う仇名がつき、それを芸名としています。
1950年代になりロンドンに引越し、57年兄のトムと地元のフォーク・クラブで歌っていましたが、58年ラナ・シスターズ(The Lana Sisters)のメンバー募集の新聞広告を見て応募し、採用されました。芸名をシャン(Shan)としてラナ・シスターズの一員となります。英国や欧州の米軍基地巡りをしながら、ハーモニーの技術、マイクやレコーディング・テクニック、TVやライヴ・ショウの演出を習得しました。
60年ラナ・シスターズを脱退し、兄のトム達とスプリングフィールズ(The Springfields)を結成し、英国フィリップスと契約しました。全英5位になるヒット、カントリー系の“銀の糸金の針(Silver Threads and Golden Needles)”のカヴァーは全米20位になるなど活躍し、本格的なフォーク・アルバム製作のために聖地テネシーのナッシュヴィルを訪れました。
FL- 1079 (1963年6月 PHILIPS - 日本ビクター) 慕情のなぎさ (ISELAND OF DREAMS)/ジョンソン・ボーイス (THE JONSON BOYS) スプリングフィールズ (compl=e)
FL- 1121 (1964年5月 PHILIPS - 日本ビクター) 二人だけのデート (I ONLY WANT TO BE WITH YOU)/ヘイ・ラバー (YOU HEY LOVER) ダスティー・スプリングフィールド/スーザン・モーン (SUSAN MAUGHAN (vf=e))
ダスティーはそこでリズム&ブルースに出会い、ソロ・シンガーになることを決意します。63年10月最後のコンサートを終え、独立しました。ソロ・デビュー曲“二人だけのデ-ト(I Only Want to Be with You)”は11月に発売され全英4位、全米12位の大ヒットとなり順調なスタートを切りましいた。この曲は76年ベイ・シティ・ローラーズ(Bay City Rollers)がリバイバル・ヒットさせ日本でも良く知られています。彼女はしだいにイギリスを代表する女性ヴォーカリストになっていきます。
65年唯一度のサンレモ音楽祭に出場し2曲歌いましたが、入賞できませんでした。しかし彼女にとって運命の曲と巡り会います。ピノ・ドナッジォ(Pino Donaggio)の“この胸のときめきを(IO CHE NON VIVO (SENZA TE))”でした。この曲にヴィッキー・ウィッカム(Vicki Wickham)とマネージャーのサイモン・ネイピア=ベルが英語の詩を付け“You Don't Have to Say You Love Me”として発売、全英チャートでナンバー・ワン・ヒット、米ビルボード・トップ10の66月7月16日にランク・イン9週目で最高位第4位にもなりました。
68年ジェームズ・ボンドの大パロディー映画「007/カジノ・ロワイヤル (CASINO ROYALE)」のバート・バカラック(Burt Bacharach)が作った名主題曲“恋の面影(LOOK OF LOVE)”を歌い好評をえました。ただアメリカで「洗礼を受けた」リズム&ブルースの傾向が濃くなると共に、一般的人気もしだいに落ち始めます。70年代に入ると私生活のゴシップに悩まされ、アルコールや薬物の依存症となり、フィリップス、アトランティックとの契約も切れ次々とレコード会社を変えてゆき、一時は引退状態になってしまいます。
ダスティー・スプリングフィールドの国内盤(イタリア関係シングル盤)
SFL- 1064 (1966年8月1日 PHILIPS - 日本ビクター) この胸のときめきを[英] (YOU DONT HAVE TO SAY YOU LOVE ME)/リトル・バイ・リトル (LITTLE BY LITTLE)
SFL- 1105 (1967年7月1日 PHILIPS - 日本ビクター) あなたを愛するとき[英] (GIVE ME TIME - L'AMORE SE NE VA [E])/恋の面影 (LOOK OF LOVE)
FD- 1003 (1970年9月PHILIPS - 日本フォノグラム) この胸のときめきを[英] (YOU DONT HAVE TO SAY YOU LOVE ME)/行かないで [英] (IF YOU GO AWAY - NE ME QUITTE PAS [E])
FD- 2003 (1975年2月25日 PHILIPS - 日本フォノグラム) この胸のときめきを[英] (YOU DONT HAVE TO SAY YOU LOVE ME)/帰り来ぬ青春[英] (YESTERDAY WHEN I WAS YOUNG - HIER ENCORE [E])
6PP-1017 (1980年2月5日 PHILIPS - 日本フォノグラム) この胸のときめきを[英] (YOU DONT HAVE TO SAY YOU LOVE ME)/行かないで [英] (IF YOU GO AWAY - NE ME QUITTE PAS [E])